(5)クリ <大きなクリ木の下で>
秋のクリ三兄弟。
クリは落葉が遅いので新雪で被害を受けることもある。
年輪を重ねた大きな木は、風雪に耐えて長く生きのびてきたという、それだけでもう十分の価値がある。古木の幹は年月を重ねるうちに傷つき、あるいは亀裂が走り、伸ばした枝も必ずしも整った姿ではないかもしれない。しかしそれでも、黙して佇むその姿には独自の風格や威厳が漂う。古木老木は無条件に敬意をはらわれるべき存在だ、そんな風に思っている。
わが農場には、訪れた誰もが感銘感嘆する3本の老大木が、悠然泰然と並んでいる。
そこは農場の入り口から正面の高台で、樹種はクリ、推定樹齢は百数十年だ。幹の直径は1メートルを越え、四方に伸びる枝はそれぞれかなりの長さになる。横一列に並んだこのクリ三兄弟の全幅は、樹冠全体で30メートル以上あり、大型の二階建て住宅ほどのボリュームだ。四季折々いつ見ても圧倒的な存在感をもってそびえており、いわば農場の重心のような存在だ。
北海道ではクリは南の方に分布していて、石狩低地帯あたりが北限らしい。わが村には天然のクリは生育しておらず、だからこのクリは人によって植えられたものだ。その太さ巨大さからすると、相当に古いものであるには違いなく、きっと開拓期に入植者の誰かが植えたものだろう。そう思って近隣の村人に尋ねるのだが、なにしろずっと昔のことなので確かなことは分からない。
わが赤井川村における和人の入植は明治時代になってからのことで、その前は当然アイヌの人たちの領域、アイヌモシリだった。興味深いことに、更にその前の時代、縄文時代の石器や黒曜石の刃物なども近辺でたくさん出土している。ちなみに、「赤井川村」という村名はアイヌ語のフレベツ(赤い川)をもとに作られたらしい。フレベツ村の方がずっとよかったのに、と思う。
『村史』によれば、明治初期に余市川を遡っていくつか鉱山が開かれ、やがてカルデラ盆地の内部、「赤井川原野」の払い下げが始まる。一定期間の間に開墾に成功すれば、国がその土地を払い下げる、という制度があったようだ。資料には、この払い下げに応募した人の中に、香川県出身のYさんという名前がある。我々が買収したこの農地が代々Yさん一族の所有だったことは確かなのだが、果たしてYさんがこの場所最初の入植者だったかどうかは不明だ。というのは別の情報もあって、「日清戦争から帰還した屯田兵たちが余市町にいて、そのグループがお宅のあたりへ入植したはずだ」というのだ。
香川からの移住者か日清戦争の屯田兵か、そのどちらかが我々の農場を最初に拓いた人で、どちらかがクリの三兄弟を植えた人、ということになるのである。いまではもう確かめようがないが、時代だけは割合はっきりしていて、いずれも明治28(1895)年から明治29年の頃のことだ。入植してすぐに植えたとするなら、いまからおよそ130年前ということになる。
というわけで、推定樹齢130年の大切なクリの木なのだが、その歴史のいまに続く40年は我々が共にしているのである。
明治の頃を起点に、重鎮クリの大木は長い歴史を経てきたわけだが、季節とともに脈打つ生命のサイクルは昔も今も少しも変わりはない。北海道の長い冬は一年の半分を占めるが、どんなに厳しい冬であっても、春になれば必ず枝先から新芽が生まれて新しい年の活動を始める。クリの木は他の木とくらべて春の動きが遅いので、時として心配になることもあるのだが、でも大丈夫、やがてしっかりと全体が淡い緑におおわれる。雪の中で枝たちが黒々と裸の四肢をのばしていたのが、生まれ変わったように緑の樹冠を回復するのである。新緑の後、6月になるとそこにはたくさんの花が咲き始める。淡い黄色の花は遠くからでもすぐに目につく大きな下垂状のものだ。20センチにもなろうという垂れ下がった花は、実は雄花で、雌花はその付け根の方に小さく咲く。クリはブナ科には珍しく虫媒花なので、昆虫を引き寄せるための派手な花の姿であり、同時に強い匂いもある。飼育されているミツバチもクリの花に来るが、クリの蜜は独特の匂いと色から必ずしも高級品とはされない。
ハチやアブなどのポリネーターの働きで受粉したクリの花は、やがて緑の小さな実をつける。誰もがクリと聞けばただちにクリの実を思い浮かべるように、秋の収穫期はクリの木のハイライト場面だ。果樹はどんな種類でも樹上に実ったものを収穫するが、クリだけは例外で、地面に落ちた果実を収穫する。樹上ではイガに守られていたクリの実は、地面に落ちるとトゲのある外皮が割れて中の実が顔を出す。老大木3本が実らせるクリはそれはそれは大量で、次々と枝から落ちてやがて樹冠の下にはびっしりと実が敷き詰められる。
10月は収穫の季節だ。地面に落ちたクリの実を、リスと競争しながら拾い集める。艶やかな“クリ色”の実はどれもきれいでおいしそうだ。わが家のクリはいわゆる「シバグリ」あるいは「ヤマグリ」で、自然分布している樹種だ。だから栽培種のような極端に大きいクリではないが、それでも中国クリよりは少し大きくて、つまり十分に食用になるサイズだ。ただ、結構多くあるのが実にあいた丸い穴だ。これは主にクリシギゾウムシという虫が開けた穴で、内部が痛んでいるのでその実は食べられない。ゾウムシというのは1センチほどの甲虫で、頭から長い口吻が伸びていて、その姿からゾウムシの名がある。ぼくは連中が地上に落ちたクリの実に穴を開けるのだとずっと思っていたが、そうではなくて、どうやらクリの実がまだ樹上にあって、緑のうちに成虫が卵を産むらしい。卵は実が成熟する頃に孵化し、その幼虫が穴を開けて実の中に潜入するのだそうだ。どおりで地面を探してもこのゾウムシがみつからないわけだ。
毎年秋になるとクリ拾いをする習慣だが、しかし時々心配になる。樹木にとって花や実の生産はかなりエネルギーの負担になるはずで、ましてやクリのように大きくて糖度の高い実を作るのは大変なのではないだろうか。木は自らの命が危うくなると、最後の力を振り絞って花を咲かせ実をつけて子孫を残す、そんなことが言われる。クリの豊作は嬉しいが、もしかしたらこれは最後の余力なのではないか、かすかにそんな不安がかすめるのである。なにしろ百年を越えた老木だしなあ、と思うのだが、収穫が嬉しくてやがて忘れてしまう。
ともあれ、肥料もあげないのに毎年たくさんの実をつけて、おまけに地上で収穫ができるのだから、クリは実にありがたい果樹である。満点をあげたいと思うのだが、しかし問題はイガから出したその実の、きれいな茶色の包装にある。これを鬼皮というが、この皮をむかないことには中にあるおいしい果実に到達できない。鬼皮の下に更に渋皮などというやっかいな皮もあって、この皮むきの作業こそがクリを少し面倒な果実にしている。
クリの皮むき専用のハサミみたいなものも市販されているが、どれもそれほど使いやすいとはいえない。クリご飯もクリきんとんも、マロングラッセだって、まずは皮むきから始めなくてはならない。大きな樹冠の下でわいわい言いながらのクリ拾いは楽しい行事だ。しかし収穫を家に運んでからは、ひたすら皮むきの単調な作業が続くのである。皮をむかないで食する方法となると、焼き栗という作戦があるにはある。皮をむかないというより、皮が自動的に実からはがれる、というべきか。焼き栗というのはフランスやイタリアの街角で売っていて、冬の寒い日にほふほふ言いながら食べるのがおいしい。なんて知った風に言うが、旅の途上のほんのわずかな見聞。
そのイタリアの田舎を旅している時、「農協の店」のようなものがあった。珍しい農具系の商品が色々あって、立ったままアスパラを収穫するハサミとか、リンゴ収穫専用のバッグとか、見るだけで楽しかった。その時に購入したのが「焼き栗用フライパン」である。そう店員に言われなければ分からない一品で、普通のフライパンに小さな丸い穴が点々と開いているだけのものだ。クリを入れて火にかければ、クリが焼けて自ずと跳ねまわる、のだそうだ。イタリア人の言うことはあまり信用できないが、帰宅してから実験すると、これが本当なのであった。ガスコンロでも火のまわり具合がちょうどいいらしく、パチパチとはぜて見事に焼き栗ができあがる。以来「カチカチ山」ならぬカチカチフライパンを愛用してクリを楽しんでいる。最近、東京にある「ファーブル記念館」を訪ねたのだが、地下にファーブルの生家の復元があって、暖炉の横にこの穴あきフライパンが下がっていた。イタリアで買ったものは薄い鉄板でできているが、ファーブル家のものはずしりと重い鉄製で、時代を感じさせる存在感だった。
ことほど左様に、クリは西欧でも古くから人の暮らしにしっかり定着した果実であった。北半球に広く分布しているクリが食用にされるのはいわば当然で、人類史の中で長く続いた狩猟採取時代の主要な食品のひとつだった。日本でも、縄文時代にクリが食用されたことが遺跡から明らかになっている。青森の三内丸山遺跡に行くと、中央に六本柱の巨大な建造物が復元されているが、このシンボル的建物の柱はクリ材だそうだ。直径が1メートルもある柱だが、遺跡の穴がそのサイズだったらしい。すごい巨木を使ったものだ。ここではクリを採取するだけでなく、植林されていた形跡もあるという。話は飛ぶが、遺跡内にある資料館を見学すると、「北海道・赤井川産」と表示されたヤジリが展示されている。わが村で作られた黒曜石のヤジリが海を渡って青森まで行ったということで、なんだかちょっと誇らしい。
縄文時代からクリは食用にされ、建築材に使われた、ということなのだが、クリ材には然るべき優れた特徴がある。最大の長所は腐食に強い、ということだ。「アリス・ファーム」は半世紀前に飛騨山中、「有巣」部落で誕生したが、放棄された古い農家を数軒借り受けて最初の暮しを始めた。いまにして思うと、それらの農家はさすが飛騨の古民家というべき立派なものだった。柱はヒノキ、梁や横物はヒメコマツなどで、思い切り太く重量感のある木材が使われていた。そして、この立派な建物の土台がクリ材なのである。建物に重量があるからか、基礎は大きな石を並べただけで、その上にクリの土台が乗る、そういう作りだった。土台は一番地面に近い所にあり、雨や湿気によく当たるはずだ。だから腐食や虫害に強いクリ材が選ばれたのだろう。
腐りにくい、という特徴をよく表しているのが、鉄道の枕木に使われるクリだ。かつて鉄道の枕木はほとんどがクリ材だった。それがコンクリート製のものにどんどん交代していったので、一時中古の枕木が大量に出回った。北海道に移転した頃がその時期だったので、ぼくたちはたくさんの枕木を安く入手して利用させてもらった。地面に敷いて歩道にしたり、フェンスの支柱にしたりだったが、いまでもそのまま残っているものも多い。実にクリ材は立派な木材なのである。
ところで、農場の中心にあるクリの三兄弟にはいま、ふたつの工作物ができている。ひとつは三本の根元を結ぶ木製のデッキだ。クリが作る大きな木陰は、ゆっくり腰かけて過ごすのに最適な場所で、夏の暑い日でも爽やかな風が吹き抜けていく。羊蹄山を眺めながらお茶を飲める、大変贅沢で快適なスポットだ。
ツリーハウス。
クリ本体に力がかかる点は一カ所のみにした。
もうひとつはツリーハウスで、何年か前に「孫たちのために」という名目で、手伝いなしのひとりで完成させた。大切な老木に負担をかけないように、幹に接する部分をほんの少しにして、目立たない工夫をした柱で建物を支えている。
追記すると、昨2023年はクリの木受難の年だった。クリを食草とする蛾、クスサンが異常発生したのだ。
クスサンはヤママユガに属する大型のガで、幼虫も8センチもあってそれが白くて長い毛におおわれている。この毛をゆさゆさ揺らしながら歩くのでシラガタロウなんていう名前もついている。目立つ毛虫だからずっと前から知っているし、横にあるブルーの点々もおしゃれな配色でかわいい、と思っていた。幼虫はやがてサナギになるが、クスサンのサナギは一風変わっていて、外側の繭が網目状で中が見えるようになっている。どうしてこんな風通しのいい繭を作るのか不明だが、その姿からスカシダワラなどと呼ばれる。サナギはやがて大きな成虫に羽化して飛び立つが、下の羽根には丸い目玉模様があって、これはガやチョウによくある天敵への防御なのだろう。
というクスサンだが、この幼虫がもっぱらクリの葉を食草とするのである。クリ以外も食べると言われるが、実際にはもっぱらクリが主食で、クリケムシと呼ばれるぐらいだ。いつもの年なら少数だからなんとなく眺めていられるのだが、昨夏はその数が半端でなく、クリの木にびっしりとついて、団体でワシワシと音をたてて葉を食べるのだった。幼虫のフンが頭上から降ってくるので、デッキに座ることもできず、葉を失ったクリは木陰を作ることもできなくなった。農場のクリ兄弟の他にもいくつかクリの木があるのだが、それらも一斉に丸裸になったのである。
クリの木を食べ尽くした幼虫は当然サナギになり、やがて成虫になって飛び回ることになった。なにしろ大型のガだからこれが乱舞するとすごい迫力で、灯火のあたりは近づくのが恐ろしいような様相だった。報道によるとクスサンの乱舞は札幌のような都会でもあったらしく、地下鉄駅入口の写真などが掲載されていた。もっともクリの木もたいしたもので、クスサンの幼虫がサナギになるために去ると、すぐにまた新芽を出して、やがてまた緑を回復した。収量は少なかったが、いつものように秋の収穫もできたので、外形上はもとどおりだが、木への負担はやはり大きかったのではないかと思う。
昨年は春先からマイマイガというガの幼虫も大発生していて、それに続いてのクスサン騒動だった。ずっと田舎に暮らしていると、時々はこういう自然の乱調に出会うこともあるのだが、昨今の温暖化の予兆に神経質になっていることもあって、いささか気の重い現象であった。