(14)サクラ 美しき春の花なれど
モネ池ほとりの「仁木サクラ」。
すぐ隣の八重桜は花の時期がずっと遅い。
サクラは美しい。文句なしに美しい。
満開のサクラは明るく華やかで、並木ともなればひときわ晴ればれと輝かしい。春を待つ気持に答えて、人々の頭上で季節を祝福するかのようだ。思えば、幼稚園、小学校から始まった長い学校生活のスタートはいつもサクラの花の下にあった。だから春とサクラは深く結びついて、身体の奥にしっかり根づいているように思う。
がしかし、ふり返ってみれば学校生活の春というのは、いつも不安な心を抱いて迎える季節でもあった。個人的な事情かも知れないが、ぼくには明日への希望に満ちて輝く新春を迎える、というようなことがほとんどなかった気がする。そのせいかどうか、ぼくはこのきれいなサクラを手放しで礼賛する気分は持たず、満開の季節にもどこかに見物に行くようなこともしなかった。
加えてもうひとつ、サクラの花に誰もが感ずる「華やかさの後のはかなさ」という、一種の不安感、無常感のようなものがある。サクラは美しい満開の後に、すぐ散る短い命の花だ。ずっと昔から歌人が歌ってきたのがよく分かる。
『世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』 (在原業平)
そのとおり、うまいこと言うなあ、と思う。サクラは人の心を千々に乱す花だ。
『明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは』 (親鸞)
ちょっと意地悪で思わず笑ってしまうが、たしかに風のひとつも吹けば花はあっさり散ってしまう。
そんな思い乱れるアンビバレンツなサクラだったのだが、ある時点でぼくのサクラはコペルニクス的に転回するのである。
大勢の仲間と一緒に津軽海峡を渡ったのは、1980年代の初めのことだ。
新天地北海道でぼくたちを迎えたのは、まったく新しい未知のサクラだった。ぼくが東京で眺めたサクラは「ソメイヨシノ」であり、北海道のサクラは「エゾヤマザクラ」だった。それは種の違いだけでなく、花咲く風景と環境が全く異なっていた。端的に言うと、ソメイヨシノは東京に咲く「都会のサクラ」であり、エゾヤマザクラは北海道の「山のサクラ」であった。
林の丘に咲くヤマザクラを見て、ぼくは初めてサクラを手放しで礼賛できるようになった。街のサクラから山のサクラへの転回は、眺める自分の人生上の転回に、はたと重なったのである。
そんな新たな心象風景が誕生したのだけれど、それはともかく、改めてサクラという樹木を見てみる。ほとんどが図鑑の知識だ。
サクラには大きく分けて2種類がある。ひとつは日本原産の「山桜」、もうひとつが人によって作られた「里桜」だ。日本古来のサクラは基本的にヤマザクラの仲間だった。「のどけからまし」の在原業平も、「花のもとにて春死なん」の西行も、歌ったサクラはヤマザクラだった。有名な「吉野のサクラ」もやはりヤマザクラなのである。
日本に原産のサクラは10種程があるらしいが、交配が容易だということで、そこから数々の新種、園芸種が作られてきた。その中で大ヒットしたのがソメイヨシノだった。
江戸時代末期に東京で作られたのがソメイヨシノで、エドヒガンとオオシマザクラの交配種とのことだ。染井というのは東京の駒込のあたりだそうで、江戸の植木屋が集まっていたらしい。ここで作られた新種のサクラが、明治以降一気に全国に広まり、ヤマザクラを駆逐することになる。
それには理由があって、新登場のこのサクラはなにより花がきれいだった。やや赤味を帯びたヤマザクラよりぐっと白くて鮮やかだし、とりわけ新葉より先に花が満開になることで、ひときわ明るく鮮やかである。栽培も容易らしく、成長も開花樹齢も早く、大きく枝を伸ばすので見事な樹形に育つ。というわけで、染井村の新種のサクラは、見事に全国制覇をしたのであった。
今では「サクラ前線」などという言葉があって、これは全国に植えられたソメイヨシノの開花前線のことだ。同じ品種をもって開花日を較べる、というのは合理的だ。もっとも、沖縄はカンヒザクラ、北海道はエゾヤマザクラ、をもってこの前線に対応するらしい。沖縄と北海道はソメイヨシノの分布域からはみ出している、ということで、これはちょっと愉快。東京生まれのソメイ君は暑さ寒さに弱いのである。ただ、北海道の南部方面ではソメイヨシノが植えられているし、札幌市にも一部名所があると聞く。まったく北海道では育たない、ということではないようだ。
ソメイヨシノについて調べてみて、意外なことを知った。この樹種は実生で育てることができないのだそうだ。だから苗を作るには、さし木か接ぎ木によるしかない。ということは、新苗はすべて親木のクローンなのであって、つまりは全国のソメイヨシノすべてが同じ親から育っていることになる。同じ遺伝子を持つのだから開花も一斉になるはずで、見物するには都合がいい。
しかし、日本中であんなに咲き誇るソメイヨシノの花は、たとえ種を作ったとしてもそれが子孫として育つことがない、というのは驚きだ。また、成育が早い、ということに比例するのかどうか、比較的短命な木であるらしい。苗を植えてから、せいぜい60年ほどの寿命だという。各地のサクラの名所も、同時期に植えたとすれば一斉に終わりが来るはずだ。きっと更新の問題に頭を悩ませていることだろう。
北海道のサクラはエゾヤマザクラだ。別名をオオヤマザクラといい、図鑑によってはこちらの名前が先んじている。
日本原産のヤマザクラは、北海道から東北地方北部がエゾヤマザクラ、それ以南がヤマザクラ、という分布になっている。比較して眺めたことがないのでよく分からないのだが、両者の違いは葉や花の大きさにあるらしい。また、サクラの花は北にいくほど赤味を増すのだそうで、もともと赤いヤマザクラの花は、エゾヤマザクラになると更に朱色になるという。冬芽や新葉なども赤味が強く、花と同時か連続するかして葉が開けば、木全体が赤味を帯びることになる。
野生種だからだろうか、春の山に咲くサクラはひとつずつ微妙に色が違い、開花にも少しずつ時間差があるように思う。
残雪の中で迎える春の山は、コブシの白い花が新春を宣言するが、すぐに続くのがヤマザクラだ。裏山に展開する嬉しい春の風景にとって、このコブシの白とサクラの赤はなくてはならない配色なのである。5月の中頃、コブシの10日間、サクラの10日間を経て、山は「春紅葉」の季節を迎える。サクラの新芽もそうだが、ミズナラやイタヤカエデなどの新葉、新梢などが赤褐色の独特の色彩を見せ、紅葉と呼びたくなる独特の風景が広がる。
わが家の裏はかって動物を放牧した草地になっているが、その上の斜面に雑木林が広がっている。更に上には国有林のやはり広葉樹林があり、この裏山全体が、コブシ、サクラ、春紅葉、という具合に展開するのである。これ以上の幸福があろうか、というものである。
山のサクラは自生のものだが、わが庭にもサクラが植えられている。いずれもエゾヤマザクラで、大きな木は庭の外周あたりに2本ある。これは前回述べた「カンブリア期」にK親方によって植えられたものだ。最初は3本だったのだが、うち1本は枝が暴れて収拾がつかなくなり、樹勢も落ちたので、結局伐採することになった。
残った庭のサクラ2本は、それぞれかなり大きく育っている。春になるときれいな花をたくさん咲かせるが、2本の開花には1週間ほどの時間差がある。花の色も微妙に異なっていておもしろい。以前、ミツバチを飼っていた頃には春一番の蜜源として、ハチたちは一斉にこのサクラへ向かった。ハチの巣箱の場所から近かったので、ハチたちがサクラを往復するのがよく観察できた。
ミツバチだけでなく、野生のハチ類も、アブの類や小型の甲虫もこぞってサクラの花に集まるし、野鳥たちもやってくる。見て嬉しいのははやりメジロ君だが、ヤマガラなどのカラの類やスズメ、ヒヨドリなども多い。花だけでなく、サクラには葉のつけ根のあたりに「蜜線」という突起があって、ここからも蜜を出す。これはアリを呼ぶためのもので、アブラムシなどの昆虫から葉を守るためなのだそうだ。なんとなく手がべたつくな、とは感じていたが、この蜜線についてはまだしっかり確認していない。
K親方の植えたサクラの他に、自分で植えたサクラが3本ある。
ひとつは幹線道路をはさんだ向かいの農家にあったサクラだ。温厚な老夫婦とは仲良くおつきあいしていたのだが、離農されることになり、農地など土地全体を引き受けることした。その住宅裏に一本の小型のサクラがあって、毎春にたくさんの花を咲かせている。ただ、場所がよくなくてせっかくの花が気の毒に思える。そこでこの木をわが家の庭に移動することにした。前の年にまわりを掘っていわゆる「根切り」をし、翌年に運ぶことになった。背丈は7メートルほどで、根鉢を70センチぐらいに作った。
トラックに乗せて庭まで運び、ユンボで吊り上げて下ろす。ここまではよかった。問題はサクラを吊ったままユンボの向きを回転しようとした時だ。今にして思えば当然だが、アームが横に向いた時にユンボは荷重を支えきれなかった。平地ならただの横転で済んだのだが、まずいことに通路の片側は斜面だった。サクラを吊ったままユンボは見事に転落し、操縦していたぼくは機械とともに谷側に落下したのである。キャビン内で頭が下になったまましばし、親分の危機から飛んで逃げたスタッフ二人がようやく帰ってきて、少し笑いながら外からドアを開けてくれた。人間性というのは危機的状況でよく分かる。
という事故で九死に一生をえたのだが、当然サクラの根鉢は思い切り崩れた。人と機械の救出のあとで、引きずるようにしてサクラを植え穴に運び、とりあえずは型どおり植えておいた。きっとダメだろうと思っていたが、このサクラが意外にも生きのびて、翌年には花をつけるまでに回復した。サクラもぼくも奇跡の生還を果たしたのである。
かくして「ユンボサクラ」はサンルームのすぐ前、中央の一番いい場所で、まるで舞台に立つヒロインのごとく手を広げて花を咲かせる。今ではとても大切な一本になっている。
残る2本はいずれも建物裏に作った池のほとりにある。池はおよそ60坪ほどあって、スイレンを植えたらよく育ったので、図にのって「モネの池」と名乗っている。この池外周には、家族それぞれの名前をつけた木をいくつも植えている。
2本のサクラのうち1本は次男仁木君のエゾヤマザクラで、これは村が村民に配布した苗木の残分だ。村民があちこちで、すぐに枯れた、とか、活着したけど花が咲かない、とか、なにかと評判の悪いサクラだが、仁木サクラは順調に育って、そこそこ花もつくようになった。このままいけば、やがて満開の花を池の水面に写してくれることだろう。
そのすぐ隣に植えたのは仁木君の奥さんのサクラで、これはホームセンターで買った「八重桜」だ。なんとなく買って植えたのだが、成育がよくて花がたくさんつくので、彼女の木に任命した。ヤエザクラは園芸種で、いわゆる里桜の仲間だ。名前のとおり花は重層的な構造になっているし、色もかなり赤味が強い。ソメイヨシノとはまったく別方向に進化改良して作られたのだろう。花の時期もかなり遅い。
しかしこのサクラも試練に遇った。ある年の早春、池の水位が思い切り上昇して、とうとう土手の一部が決壊した。その時近くにあったのがこのヤエザクラで、土砂とともに斜面下に倒れてしまった。急いで起こして応急処置をし、翌春に近くに移動した。根がかなり傷んだはずで、心配したが、がんばって復活しつつある。ふたつ並んだ夫婦のサクラなので、なんとか樹勢をとりもどしてしてあの赤い花を見せてもらいたい。
サクラの木には心配事がついて回る。総勢5本になる庭のサクラは、昨春にいずれもよく咲いてくれたが、夏の終わり頃になって2本の木に異常が出てきた。8月の終わり頃、まだ夏の暑さが続いている頃に、いきなり葉が茶色になり、9月に入った頃にどちらも葉がすべて落ちてしまった。ユンボサクラと仁木サクラの2本だが、もちろん紅葉の時期には早いし、他の木々は光合成のまっ盛りだ。原因は不明だが、異常であることには違いない。もしかしたら、夏の暑さで水不足になり、水分消費器官である葉を捨てたのかもしれない。乾燥時に樹木が意図的に落葉する、という話をどこかで読んだ記憶がある。もっともその後の点検では、どちらも冬芽をつけているように見える。心配だが、きっと次の春にはまた通常どおりに花や葉を出してくれるだろう。
エゾヤマザクラ材で作ったデスクボックス。孫への誕生祝い。
北海道にはエゾヤマザクラの他にもいくつか自生のサクラがある。道路向かいの農家には、移動した「ユンボサクラ」の他に「チシマザクラ」があった。背が低いサクラなので、きっと冬囲いが必要だったのだろう。それを怠ったので、雪の重さでつぶれてしまい、結局枯れてしまった。チシマザクラは、名前のとおり北海道でも東部方面に自生する種類らしい。
また、牧草地をとりまく林の中に「シウリザクラ」というサクラの仲間を見つけた。棒状の花序に小さな花をたくさんつける、かわいいサクラである。新葉が先に開き、その後でおもむろに花が咲くのが珍しい。新緑の葉の上に花が乗っているように見える。この木は実生よりも根からの萌芽が盛んで、株立ち状に成育するという。牧草地のシウリもたしかにいくつもの幹が立ち上がっている様子だ。
このほかに北海道では、「ミネザクラ」とか「カスミザクラ」、「ミヤマザクラ」などが自生しているらしいのだが、いまのところ発見したのはシウリザクラのみだ。
用材としてのシウリザクラは、一度家具工房の仕事で使ったことがある。おもしろいのは、木材関係の人はこれをはっきり「シュリ」と呼ぶことだ。もともとはアイヌ語の「シウニ」からきた名前だそうだ。シュリ材は通常のサクラ材と較べるとやや柔らかい材質のように感じた。
サクラ材は優秀な木材だ。密度の高い木肌はしっとりとしているし、心材の赤味の発色もいい。最近、倉庫に残っていたヤマザクラ材を使って、三人目の孫「ハルちゃん」の誕生日にちょっとした木箱を作った。お祝いなのでフタに彼の名前を彫ったのだが、彫刻刀が気持ちよく食い込んで、やはり高級材はいい、と改めて思ったところだ。
サクラ材に似ている、ということで、種が異なる木材にあえてサクラの名をつける習慣があるようだ。「カバザクラ」、「ミズメザクラ」などがそうで、ぼくは以前それらがサクラの仲間なのだと思っていた。それとは逆に、秋田で有名な「樺細工」はカバ類ではなくて、サクラの樹皮を使った木工品だ。ヤマザクラの樹皮がきれいなので、それを茶器などの表面に張る特産品だ。
まとめて言うならば、サクラは花はきれいだし、用材としても優れているし、間違いなく日本の樹木の中で最良の樹種のひとつだと思う。
最後にもう少し。今回サクラの話を書くに当たって『桜と日本人』(新潮選書)という本を古書店で手に入れた。文芸評論家の小川和祐という人の著書だが、内容がかなり衝撃的だった。同時に、ぼくがサクラに感じていた漠とした不安感とか反感のようなものが、一気にクリアになった気がした。
簡単に言うと、日本人が古来愛でてきたサクラへの愛着や美意識は、いわば「サクラ文化」というようなものとして長年継承されてきた。ところが、明治以降のソメイヨシノの流行はサクラの景観を一変させたとともに、花の多さが散りぎわの無常さをことさら強く印象づけることになった。これに乗りかかったのが明治の富国強兵を起源とする軍国主義で、それは伝統的なサクラ文化を大きく歪め、結局サクラは「軍国の花」、「靖国の花」になってしまった、そういう意見だ。
「貴様と俺とは同期の桜♪」というような低俗な歌が「サクラを冒涜した」と著者は述べる。戦争を体験した多くの作家がサクラへの「恨み」を作品に書いていて、この本にはその数々が紹介されている。中村真一郎、萩原朔太郎、梶井基次郎、坂口安吾、城山三郎、辻井喬、田村隆一、芥川龍之介などなど。戦時の空気を支配した武士道的、悲壮美的サクラ観への反発なのだと思う。
もちろんぼくは戦争を知らないし、軍国のサクラも知らない。ただ、その空気は今の時代にも社会の底流として生きているように感ずるし、ノスタルジックな右傾化の空気は濃くなっているように思う。おそらく意図的なのだと思うが、自衛隊や警察や右よりの団体などの記章やエンブレムにサクラのデザインが多いのは事実だろう。
安倍晋三の「サクラを見る会」スキャンダルはひどいものだったが、皮肉なことに会場の新宿御苑のサクラは、ソメイヨシノよりもヤマザクラなどが多いのだそうだ。もしもまた右派の皆様が「サクラを見る会」を催すなら、場所は靖国神社の方がずっと適当だろう。そこにはソメイヨシノがたくさんあって見応えがあるらしいし、東京の開花標本木もここにある。「われ散りゆかん」と辞世の句を詠んだ特攻隊員の「英霊」も、ここに眠っているのだそうだ。
上記の本から(いささか散文的な)悪口をふたつ引用しよう。
「ソメイヨシノには花樹としての気品がない」(サクラ研究家・笹部新太郎)
「ソメイヨシノは一生懸命咲きすぎて、見ていて苦しくなるが、ヤマザクラは心が和む」(作家・渡辺淳一)
エゾヤマザクラに囲まれる北の辺境に暮らせて幸運なのかもしれない。