アリス・ファーム へようこそ! 北海道 赤井川村 から ブルーベリー ジャム と 北の暮らし をお届けします。


グランパ樹木記マーク
#10 (2024.10)
(10)キタコブシ 春を告げる白い星

コブシの花はこんな風に葉のない枝に盛大に咲く
 たとえこの世にサクラがなくなっても、コブシの木だけは元気で、思い切りたくさんの花を咲かせてもらいたい。なんて、もちろん言い過ぎだけど、北国に暮らす身にとって春を告げるコブシの花のありがたさはなににもまして貴重なものだ。ようやく雪の季節から抜け出すのが春4月、もちろんまだ日陰には雪が残っているが、吹く風はぐっと柔らかくなり空も青くて、心なしか優しい色に変わる。そしてこの頃、山に点々とコブシの白い花が散りばめられる。木々の緑はまだまだで、ようやく新芽がふくらむぐらいのこの季節にコブシはいち早く咲き始める。わが裏山は見渡す限りの広葉樹林だが、葉を落とした木々の中に白い花が思いがけずたくさん浮かぶ。
 山のコブシにも微妙な季節のズレがあって、わが家の裏山よりも先に咲くのは尾根の反対側、余市の山だ。村の暮しは定期的に余市の町へ買物やその他の用事に出かけることで成り立っているのだが、この往復の山越えドライブが中々楽しいのである。特に帰路はカルデラ内輪山に向かって登ることになり、山の木々と直接向き合う風情がある。一帯の地名は「登(のぼり)」、道の名を「登街道」という。この登街道をたどりながら対面する林にはことのほか多くのコブシがあって、春先は沸き立つ気分でハンドルを握る。時として道から外れて山道に入ってみたりもするが、しかし中々コブシの木そのものに接近するのはむずかしい。どうしても遠くから眺めることになるのがこの一帯のコブシなのである。
 余市登街道のコブシより少し遅れて、村のコブシが咲き始める。花の期間は十日か2週間ぐらいのものだろうか、後半になるとエゾヤマザクラのピンクがちらほら混ざるようになる。そしてその頃にやっとわが庭のコブシが咲き始める。庭の範囲には自分で植えたコブシが4本あるのだが、うち2本は本部の建物を建てた時のもので、しかしどちらもまったく生育がよくなくて、情けない姿をしている。前庭の一本は一緒に植えたカエデ類に圧倒され、おまけに雪で幹が裂けてしまった。背は高いがかろうじて生存している、というぐらいだ。もう一本は道端に植えてしまったせいかどうか、これもなんとか細々と生き延びている姿だ。どちらもたまに花を数個つけ、するとかえってなんだか気の毒な気になる。
 この2本と別に、建物裏の池周りに2本のコブシがある。池の周りにぐるりと並んだ木は、家族のメンバーそれぞれの木ということになっていて、名札がついている。次男に長女が生まれた時に、その記念に植えたのがコブシの木だった。念のために2本を少し離して植えたのだが、どちらもうまく活着した。後になってその一本を長男のお嫁さんの木、ということにした。小さな苗木だったのだが、いまでは結構大きくなってきて、ようやく花をつけるようになった。苗木屋さんから買った時にはたしかに「ヒメコブシ」と聞いたのだが、後になってこれがキタコブシであることが判明した。ヒメコブシまたの名をシデコブシは、同じモクレン科の親戚だが、その名の通り背が低いし北海道には自生していない。木に下げた名札にはまだ「ヒメコブシ」とあるが、キタコブシだったのはむしろ幸運だったと思っている。
 この池端のコブシが咲くのは5月に入ったあたりで、やがて山のサクラも満開になる。嬉しい春の風景だ。ちなみに、コブシの花が上向きに咲く年は天気がよくて豊作になり、横向きに咲くと雨の多い年になるという言い伝えがあるらしい。本当かどうか分からないが、いずれにしても春を歓迎する「迎春花」であることには違いない。コブシは全国に分布して人々に愛されるからだろう、別名もたくさんあって、タウチザクラ(田うち作業)、ヒキザクラ(遠目にサクラ)、マンサク(先ず咲く)などと呼ばれる。アイヌ語では「オマウクシニ」=そこ・香気・通る・木、というそうだ。ラテン名もコブシのままで、 Kobus magnolia とあるが、もしそのまま「コブス」と読むなら、コブシが訛っているみたいでかわいい。
 北海道のコブシは正式にはキタコブシといい、前回のホオノキと同じモクレン科の親戚だ。なので、サイズを別にすると全体に割合ホオに似ている。樹皮はやはり白っぽくて滑らかだし、葉の形も小さいがホオに似ている。硬めの葉はなんとなくカキの葉に似ている気もする。どちらも幹は通直でまっすぐ伸びて育つ。白い花びらの花はやはり両性花で、オシベとメシベが時期をずらして開く。ただし、ホオノキのように数日で決着をつける受粉ではなく、一定期間前半がメス期、次にオス期と分かれるらしい。自家受粉を防ぐためだろうが、同じ木に別の花粉があるわけで、結局自家受粉があり、繁殖力の弱い種子が生じるのだそうだ。コブシもまた昆虫を頼りにする受粉で、そのための匂いと花粉を用意している。花が派手だからか香りはあまり強くないが、枝や樹皮にもほのかな香りがあって、お茶のようにして飲むこともあるという。
 以前に山のコブシを移植をしたことがあるが、根がまっすぐ下に伸びる直根なので、掘るのに苦労した。それが原因で大きな木の販売が少ない、と植木屋さんに聞いたことがある。もっと市場に出回って、街路樹などに使われるといいのに、と思う。
 コブシの実もまたホオとよく似た集合果だが、やはり少し小型だ。花の後に種を包む棒状の塊ができて、最初は緑色だがやがて茶色くなり、やがて中から丸いオレンジ色の種たちが見えるようになる。この袋果が集まった状態がごつごつしていて、その形が人の拳に似ているところからコブシという名前がついたといわれる。言われればそうかな、と思わなくもない。オレンジの種はやがて白い糸でぶら下がる形になるが、これは鳥たちに食べてもらうための仕組みだ。鳥は種を食べて果肉を消化して排泄するが、そこに本当の種子がある。実際に果肉を除いてみると、中から黒い小さな種が出てくる。まん丸ではなく、やや押しつぶされたような形の種子である。

夏の終わりにコブシの実は成熟する
 木の種は一般に親木の下では育ちにくいといわれ、同心円の外へいくほど発芽成育の可能性が高くなるらしい。だから、鳥による拡散散布は大いに有効なはずだ。鳥は飛ぶために身体を軽くすることが生存上の大命題で、骨も中を空洞にするぐらいだ。鳥は木の実をたくさん食べるが、それはかなり早く、数分から十数分で消化器を通過して排泄してしまうらしい。重い木の実をいつまでも身体の中に置いておくわけにはいかないのだろう。
 ところで今年(2024年)は、木の花がいつになくよく咲いた年だった。春先のコブシはもちろん、それに続くヤマザクラも見事だったし、続くカツラ、シナ、カエデ、ナラ、ナナカマド、ヤマボウシ、ツリバナなど、庭でも山道でも花が多くて、とても楽しい春から夏への散歩道であった。興味を持つようになったからだろうが、どの木もそれなりに個性的な花を持っているし、繁殖の方法に工夫があっておもしろい。
 夏から秋になると木の花は果実に変わって、これもまたそれぞれ個性的な姿をしているし、拡散の方法も色々で楽しい。今年はドングリも過去2年の不作から一転して大豊作だ。山道をドングリを踏みながら音を立てて歩くぐらいで、これなら山のクマたちもハッピーだろう。木々の種子散布は上記コブシのような鳥散布、ドングリのように落下してあとは動物に運んでもらう散布、そして圧倒的に多いのが風による散布だ。山道のカエデもハルニレもシラカバもヤチダモも、軽量の種に羽根をつけて風で飛ばしている。
 ところが、そのようにして散布した種が果たしてどれぐらい無事着地して、うまく根を出し芽を出せるかというと、これは絶望的な確率だろう。おそらく1パーセントにも満たない生存率になるはずで、木々の必死の努力を前に気の毒なような申し訳ないような実情だ。さもありなん、あたりを見渡せば木の種が着地して命をつなぐような余地はほとんど見当たらない。林にはたくさんの木々がびっしり立ち並んでいるし、林床もササや草の類にほとんど覆われている。だから、たとえ地面まで達しても発芽に必要な太陽の光はほとんど届かないだろう。おまけに地上にはたくさんの菌類が待っていて、落ちてきた種に一斉に襲いかかるという。前回のホオノキのように耐久性を持っていて、20年も待機できる種もあるらしいが、それにしてもギャップができて急に陽光が差してくるようなチャンスはめったにないだろう。風で遠くまで飛んでも、鳥に運ばれて別な場所に行っても、ネズミやリスに地面に埋めてもらっても、木の種たちには決して明るい未来があるわけではない。ごくわずかな偶然で適地に到達した幸運の種がかろうじて母樹の命をつなぐことになる。
 というようなことをかねがねぼんやりと思っていたのだが、しかし、今年の木の花と木の実の盛大さはちょっと特別なのではないか、そんな気がし始めた。この豊作ぶりにはなにか背後に特別な要因があるのではないか、あたりを眺めながらそんなことを考え始めている。
 まず昨年から今年にかけて、北海道全域で「ササ枯れ」という現象が起こった。山林の林床を覆うササ類が枯れる大規模な現象で、これは一定の周期で起こることらしい。数十年とも百年とも言われる周期で、ある時一斉にササが開花して実をつけ、そして一斉に枯れるのだ。北海道には主にクマイザサとチシマザサという2種類があるのだが、ぼくたちの住むエリアではこのクマイザサが大規模に枯れた。枯れる前にササは開花して実をつける。この実が動物の食料になるのだが、結果としてノネズミが大発生することになった。山で大規模に繁殖したネズミは山から降りてきて、人家周辺にも大量に押し寄せる。昨年から今年にかけての冬、ネズミの被害は甚大だった。山道の木々も、対策をしてあったはずの庭木などもずいぶん囓られてしまった。
 というササ枯れ現象とノネズミの大発生は、昨年北海道で起こったちょっとした事件なのだが、そこから派生して、実は山の木々にも大きな影響があったはずだ。ネズミに幹や枝を囓られる、という負の影響とは逆の、プラスの効果が予想されるのだ。この秋に訪ねた東大演習林の資料によると、このササ枯れこそ山林の樹木にとって最大の繁殖チャンスなのだという。つまり、日頃は山の木々から散布された種子はササの下で光を浴びずに死んでしまうが、ササの葉がなくなればぐっと成育のチャンスが増す、ということだ。枯れたササが回復するには十年以上かかるらしく、その間に陽光を浴びた苗木はササの背丈を越える十分な高さまで生長することができる。つまりササ枯れこそ森の木が躍進する最大の機会だというのだ。
 そして、この千載一遇のチャンス到来を今年、木々は察知したのではないか。だから、この春に山の木々はいつにも増して思い切りたくさんの花を咲かせ、夏から秋には思う存分種をまき散らしたのではなかったか。どうもそのように思える。当然、山の木が林床のササ枯れを知りうるのか、という疑問がわくが、ブナの森を研究したある文献には、一般的習性としてではなく、実生の成果を把握して翌年の実の増減をコントロールする、との記載があって、それならササ枯れぐらいは把握するのではないか、そんな風に考える。だから、もしかしたら今、ぼくたちは広葉樹林躍進の年代を目のあたりにしているのかも知れないのだ。
 この件について、今のところまだそういう報告はないようだが、いずれ誰かが今回の現象をレポートしてくれるのではないかと期待している。
 というわけで、春のコブシの見事さと山の花の満開、そして秋の木の実の豊作が、去年のササ枯れとネズミの大発生と結びつく、というちょっと三題噺めいた連想になったのである。
 ネズミの大発生は困るが、来春もコブシには思い切りたくさん咲いてもらいたい。


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#09 (2024.9)
(9)ホオノキ
 園芸関係の図書の中に、「失敗しない庭造り」というような項があって、「近隣に自生する樹種を選んで使うのがよろしい」と記されていた。なるほどそれはたしかに安全かも知れない、でも近隣の林と同じ木を植えるのでは面白みに欠けるんじゃなかろうか、そのように思った。しかしもし、仮に園芸書のそのアドバイスを受け入れるとしても、近隣に自生してはいるが、庭に植えるにはいまひとつ気が進まない樹木、というのもあるような気がする。たとえば今回のテーマのホオノキだ。
 どうして庭にホオを植えたくないか、というと、それは端的にホオという樹種の容姿によるものなのだが、あらかじめ断っておくと、ぼくが見る山道のホオは山林の中で多くのライバルたちと競合して生き残っている前線の姿である。庭の安寧な環境に置けばもっとずっと優雅な姿を見せるのかも知れないのだが、林の中ではなにより背を伸ばすことを優先している。山道に入ってすぐに並んで立つ背の高いホオたちは、道からはほとんど幹しか見えず、樹肌の識別ができなければなんの木かにわかには分からない。途中に枝はほとんどなくて、ずっと上の樹冠のあたりで枝と葉を広げている様子だ。しかしそれは20メートルも上のことだし、葉も裏から見ることになるし、おまけに他の木々の枝葉が視界をさえぎるから、はなはだ鑑賞には不便なのである。こんな木を庭に植えたいと思うだろうか。

ホオの花は数は少ないがものすごく大きい。
 といって、ぼくは特にホオを嫌っているわけではない。少ない枝の先端にむやみと大きな葉を爆発的に並べ、花もまた巨大でやたらと派手で、赤い実もなんだかこれ見よがしだし、まことに個性的で愉快なヤツだと思っている。どういう経緯でこういう個性を持つのか知らないが、きっと古い樹種なのだろう。そう思って調べてみると、たしかにモクレン科というのは古くて、一億年も前に誕生した種類であるらしい。一億年前というのはそれまでの針葉樹から新しいグループ、広葉樹が誕生した時期で、ホオノキはその頃の初期広葉樹の特徴を残しているらしい。
 広葉樹は針葉樹から進化した形で誕生したが、最大の特徴は繁殖の方法の違いにある。針葉樹は花粉を風で飛ばすが、広葉樹は花粉を昆虫に運んでもらう。風媒と虫媒の違いだが、広葉樹はその後の進化で昆虫への対価として蜜を提供するようになった。モクレン科はしかし、広葉樹誕生の初期の木なので、まだ蜜を持っていない。蜜のかわりに強い匂いと花粉で昆虫を呼び寄せているのだそうだ。モクレン科の他の木、コブシやハクモクレンにも似たような特徴があるはずだが、それにしてもわれらがジャイアント、ホオノキは突出したキャラクターである。
 ホウの葉は日本の樹木の中で最も大きいといわれる。一番ではなくても最大級であることには間違いないだろう。なにしろ長さが40センチもあるのだ。この巨大な葉は大きいだけにあれこれ用途があって、まずはものを包むのに利用された。「包む」から「包=ホオ」というのが名称の由来だ、というやや安直な説明もある。香りもいいし、殺菌作用もあるらしく、この葉を使った郷土料理のあれこれが有名だ。
 ホオの葉は枝の先端にまとまって展開する。枝の先に大きな葉がいくつも、車輪のようにぐるりと丸く開くのだ。トチの木も似たような大型の葉の展開を見せるが、トチの葉は一枚の葉が手のひらのように開いた形になっている。ホオの葉は単独の葉が円形に並ぶので、トチとは違う。大きくて肉厚の葉を6枚とか7枚とかまとめてつけるのだから、結構な重量になるはずだ。ホオの枝はそれを支えるような太さになっている。
 ホオの花は、その車輪のように丸く展開した葉の中央につく。これがまた大きくて、直径で20センチはあろうかという盛大さである。もっとも、車輪型の葉もそこに咲く花も、ずっと上の先端部にあるので、残念ながらあまりしげしげと見る機会は少ない。手にとってみれば大きさの実感が更に増すだろう。わが家のあたりでは、5月に展葉が終わってその中心にロケット状のつぼみが出現し、6月に入ってから花は成熟して開きはじめる。ホオの花はクリームがかった白色で、スプーン型の花弁が中心のオシベとメシベを取り囲む。遠くても芳香があるからすぐ分かる、と主張する人もわが家にいるのだが、鈍感なぼくにはかすかにしか感じることができず、山道のずっと上にあるやや小型のホオノキにまで行ってようやくその「芳香」なるものを知るのである。
 「空に香が 溶けつ離れつ 朴の花」(飯田龍太)
 香りはともかく、ホオの花はちょっと劇的な生殖活動をする。当たり前だが植物の花は生殖器官であり、受粉こそが生命線と言える。ところがホオはそれをわずか2日の早業で完遂するのである。ホオの花の1日目、中央に棒のように直立するメシベが開くが、その日のうちにメシベも花弁も閉じてしまう。2日目にはもうメシベは開かず、周囲を取り囲むオシベが開いて花粉を散らす。3日目になるとオシベも役割を終え、やがて落ちてしまう。それぞれ一日だけのいさぎよい受授粉なのである。ホオはメシベとオシベが同じ花にある両生花だが、自家受粉を防ぐためにこういう時間差を作るらしい。
 前に述べたように、花には蜜がないが受粉には昆虫の助けが必要なので、かわりに強い香りを用意している。花弁の派手な白色やメシベやオシベにある赤の配色もきっと昆虫の注目を集めるためなのだろう。という受粉のドラマは頭上高くで展開しており、情けないことにぼくは毎日双眼鏡で見上げるばかりである。
 そんなこちらの観客事情とは無関係に、ホオはしかししっかり受粉をして、やがて実をつける。ホオの実はメシベの棒状の柱が、そのまま松ぼっくりのような集合果になる。これがまた大きくて、最大では20センチにもなろうかというサイズだ。秋になると熟して全体が赤くなり、らせん状に並んだ小さな袋があって、そこにふたつの種が入っている。種も真っ赤でこれは野鳥へのアピールだ。赤い種は白い糸でぶら下がり、それをキツツキ類やカラ類などの鳥たちが食べに来る、ということなのだが、経験的にはかろうじて鳥の姿をちらりと見たぐらいだ。何度も言い訳するが、実もまたずいぶん高いところにあるのだ。
 樹木は鳥たちが食べやすく飲みこみやすいサイズの種を用意するのだという。鳥の消化器を経由した種はあちこちに散布され、場所や気候やその他の条件に恵まれた幸運の種が樹木としての新しい生命を始めることになる。ただし、たとえ悪い環境に落ちたとしても、ホオの種は強靱で、地面に落ちてから環境が整うまで20年も待機できるのだそうだ。近くの木が倒れて新しい日光の環境が生まれるような場合で、これを「ギャップ」というらしい。それにしても20年の待機というのはすごい。
 森の異端児ホオノキ(とぼくは感じているのだが)でもうひとつおもしろいと思うのは、自分の近くに他の植物が育たないように、ある種の化学物質を放散する、という性質があることだ。これを「アレロパシー」といい、日本語では「他感作用」とされる。もっと適切な日本語がありそうだが、ともかくホオはその葉や根から揮発性の物質を出し、近くの植物の生育を妨害する。こういう揮発性の化学物質を「アレロケミカル」というが、森林浴で有名な例の「フィトンチッド」もこの一種だという。
 揮発性化学物質で身辺に他の植物を寄せつけない、というのもすごいが、そのことと関連するのかどうか、ホオには薬学的な力が備わっているようだ。ホオの樹皮からは「厚朴=こうぼく」という漢方薬の原料が採れ、これが各種の薬剤に処方される。有名な「毒掃丸」もホオの樹皮を原料のひとつとしているそうで、薬のメーカーが秋田でホオノキの植林をした、というニュースを見たことがある。
 ホオの葉は大きくて丈夫なので各地の郷土料理に利用されているが、葉にもやはり抗菌作用があるらしく、それもまた料理と相性がいい理由かもしれない。ぼくは飛騨地方に10年間暮らしたので、特産品の「朴葉味噌」なるものに時々接した。いまではお土産の一種なのだろう、誰かが発明した「飛騨コンロ」という小型の土製のコンロと、ホオの葉や味噌などがセットで売られている。なぜかコンロには和紙が張ってあって、そこに昔風の筆文字が書かれている。ぼくたちが飛騨に移り住んだ少し前に開発された商品だと聞いたが、見事にヒットしていまやわが北海道のホームセンターでさえこのコンロを売っている。朴葉味噌はもともと山仕事をする人が、昼食にホオの葉を使って味噌や山菜を焼き、持参の飯と一緒に食した、というものらしい。

ホオノキの庭木仕様をネットで発見した。
このように仕立てることもできるらしい。
 ぼくたちの原点は飛騨の山奥、「有巣」という名の部落にあるのだが、ある時、近くに住むおばあさんを訪ねた。日当たりのいい縁側に座ってあたりを見回すと、奥の壁にすごく大きなノコギリが立てかけてある。長さは1メートル、刃の幅が30センチもある巨大なノコだ。すごいですね、というとおばさんはそれが「おが」(大鋸)というものだといい、自分の父親が「杣」(そま)だった、と話してくれた。初めて聞く言葉だったが、山仕事をする人を杣、あるいは杣人という。朴葉味噌はまさに杣の昼食だったのである。
 話は少し横にいくが、飛騨で暮し木工の仕事をしているうちに、昔の杣をはじめとした山仕事の話をあれこれ知ることになった。興味深かったのは「木地師」の話で、この人たちは山から山へと移りながら、挽物の盆やお椀の類を作ったらしい。その血統と伝統を引き継いで挽物をする職人さんと仲良くなったが、「三代ここに住んでるけどいまだに『旅の人』=よそ者、と呼ばれるよ」と言っていた。木地師、山窩(サンカ)、マタギなど、山の漂泊民への差別の影はいまでも微妙に残っているらしい。
 飛騨の朴葉味噌は有名だが、ちょっと調べてみると日本各地に同様のホオの葉を使った料理があるようだ。いわく、ホオ葉寿司、ホオ葉メシ、ホオ葉モチ、ホオ葉巻き、ホオ葉焼き、などなど。葉が大きくて耐久性があり、おまけに抗菌作用があって香りもいい、というのだから利用されたのも当然だろう。殺菌力の効果だろうか、ホオの葉は虫が食べないので、他の木の葉のように穴があくことがなくて利用に便利、という側面があったのかもしれない。
 ところで、ホオは用材としても日本の生活文化の中で大変重要な役割をしてきた。ぼくは昭和21年生れなのだが、昭和の暮しを振りかえれば、家の中にかなりたくさんのホオ材があった。思いつくままあげてみると、おぜん、お盆、お椀、将棋の駒、画板、スケッチ板、卓球のラケット、仏像、額縁、小刀のさや、木琴、まな板、彫刻刀の柄、包丁の柄、バット、たんすの引き出し、定規、鉛筆、太鼓のバチ、コタツ、下駄・・・・・・あらゆる所にホオ材があったではないか。列挙するだけでなんだかとても懐かしくなってしまう昭和の時代の日常なのである。もちろんもっとずっと昔から使われてきたはずだが、ホオ材の地味な木地の色あいは、ぼくには昭和という時代の色彩を表すように思える。
 懐かしのホオの思い出は肌に密着して残っており、若い人には分からないだろうが、たとえばホオの下駄などは本当にどこの家の玄関にも並んでいたのだ。ホオのまな板はどの台所にもあり、包丁の柄もあのいささか薄汚れたような色のホオに決まっていた。お正月にはホオの板にホオの柄の彫刻刀で彫刻をして、年賀状を作るのは学童の義務なのであった。
 地味だがそれなりに優秀な木材としてのホオはいわば日本の国民的な木材だった。ヒノキは神社仏閣を作り、国宝の仏像を作ったが、ホオは庶民の暮らしを基礎から支えたのである。
 山中で飄然と暮らしているように見えて、実のところホオはなかなか実際的で偉い木なのである。


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#08 (2024.8)
(8)シナノキ 優雅な名樹

庭のシナノキから見た本部建物
 シナノキは穏やかで品が良く、もの静かで美しい。ただきれいなだけでなく、実際的で役に立つ側面も多く、お父さんとしては「息子の嫁にぜひ」といいたくなるような木である。ただし、大人しい分弱々しいところもあって、もしかしたらいざという時に頼りにならないかもしれないのだが、総じて言えばやはりぼくはシナが大好きだ。
 シナとの個人的おつきあいにはいくつかの側面がある。まず最初は、庭に植えた一本の木として、日々面会し満足しつつ見上げている。同様に毎日歩く山道にあるシナたちは、折々の野生の姿を見せてくれる。そしてこれもまた毎日になるが、朝食の食卓で会うのがシナのハチミツだ。長い間シナミツと特定して養蜂家の知り合いから購入している。もうひとつのシナは工房で使う用材としてのシナだ。趣味で木の玩具類を作っているのだが、これに使う材料が主としてシナ材だ。時としてシナベニアを使うこともある。つまり、樹木として、花由来のハチミツとして、そして木材として、という三方面のおつきあいなのである。
 正式名称「シナノキ」をいまあえて「シナ」と呼んでいるが、これはただの習慣で他意はない。木の名前には下に「ノキ」とつけることがあるが、これは上が2文字に限るようだ。ホオノキ、ネムノキ、トチノキという具合で、呼ぶときには上2文字、正式には4文字、という習わしだろうか。
 それはともかく、シナには少しやっかいな名称問題がつきまとっている。シナそのものは日本の在来種なのだが、特にハチミツ屋さんを中心にこれを「菩提樹」と呼ぶことがある。釈迦がその下で悟りを開いたというのがインドの菩提樹で、それとは全然種が違うのに葉が似ているということで、中国では別の木に菩提樹の名前がつけられた。中国のその「菩提樹」は仏教とともに日本に輸入され、寺院などに植えられた。ところが、日本には近縁種でオオバボダイジュという木があった。そしてそのまた近縁種がここで話しているシナノキ、という事情だ。つまり、この4種は基本的に別種として区別しなくてはならない。それなのに、「ボダイジュ」というその語感がいいからか、シナのハチミツをボダイジュ蜜と呼んだりする。その延長でリンデン・ハニーなどと横文字にしたりするからますます混乱する。リンデンはセイヨウシナノキという種類のはずだ。という事情があるので、われらがシナノキはしっかりシナと呼ばなくてはならない。
 シナノキの「シナ」の語源ははっきりしないが、ひとつには「信濃の木」からきたという安直な説がある。もうひとつアイヌ語を語源とする、というちょっと支持したい説があるが、どちらも確証はないようだ。
 シナは上品だ、という感想を冒頭に述べたが、その印象はまず木としてのたたずまい、なかんずく枝葉の姿にある。よく似た樹に文句なしの名木カツラがあるが、どちらも葉の形がハート型をしている。どちらも大きすぎず小さすぎないいい形の葉である。シナの葉はあえて言えばスペード型ということにもなりそうだ。
 厳しい冬の寒さや風に耐えた冬芽は、春の訪れとともに開き始め、やがて枝全体が淡い緑の葉におおわれる。美しい新緑の始まりだ。しばらくするとその葉のつけ根あたりから棒状の花の柄が伸びてくる。柄の先端に粒状の花のつぼみがたくさん、多分10個ぐらいずつつく。図鑑などでは「散房状の花序」と説明している形だ。やがてつぼみはそれぞれ淡黄色のかわいい花になる。枝先にたくさんあったツブツブが、まるで線香花火のように一斉に開くのだ。ひとつが1センチというサイズだが、近づいてよく見れば中央に立つひとつのメシベとそれを取りまくたくさんのオシベ、という構成になっている。そこまで近づけば花の香りはわき立つように感じられる。例によってメシベの開花とオシベの開花に時期的なずれがあるが、これは自家受粉を避けるための時間差のはずだ。花の季節の最後になると、樹下を歩くとごく小さな花びらが地面一面に散っているのが分かる。
 小さな花がたくさん集まるのを「集合花」と呼ぶが、これは昆虫にとっては大変魅力的な食卓だ。大きく飛び回らなくても近くの花を次々訪ねることが可能だから。ましてそこに香りが加わるのだから、虫たちは一斉に集まってくる。もちろん飼育されているセイヨウミツバチにとってもハチミツを作る大切な原料になるわけで、シナをめがけて集団でやってくる。ぼくの朝食のミルクティに欠かせないシナのハチミツは、この花を起点に巣箱を経由してやってくるわけだ。正確にいうと、働きバチは「蜜のう」に花蜜を貯めて巣に帰り、巣の中で待っていた内勤の働きバチに蜜を渡す。受け取ったハチの体内の酵素の働きで、花蜜のしょ糖が果糖とブドウ糖へと変化してハチミツが作られる。実にシナとミツバチの共同作業で、ぼくのおいしい朝食は完成するのである。シナ蜜にはハーブの香りがあり、栄養価が高いといわれるが、ブドウ糖が多いので結晶しやすい、という特徴もある。

シナの花と「包葉」の様子
 わが家の庭のシナは6月の中頃に満開になる。7月に入ると裏山の上方、国有林のあちこちに淡い黄色の木々が混ざって見える。これがすべてシナの花と包葉が作る微妙な色彩で、遠景からは葉の緑はほとんど見えないぐらいだ。花の時期は割合長いが、やがて小さな丸い実に姿を変える。つぼみの時と同じようにまたツブツブが先端にたくさん集まるのだが、この実も黄緑からやがて茶褐色に色が変わって成熟する。5ミリほどの小さくて堅い実が枝先に長い間ついている。花の満開からおよそ二ヶ月ぐらい、9月に入った頃だろうか、ようやく種の散布時期がやってくる。この時重要でかつシナ独特なのが、花の時からずっとひかえていた「包葉」の存在だ。カエデの実のプロペラを片方だけにしたようなこのヘラ状の「包」の存在こそ、シナの花や実をひと目で識別できる特徴でもある。そしてカエデ同様にこれがプロペラの役割をして、シナの実を遠くへ飛ばす役割をする。といっても包の下にある実は、3個とか5個とか一緒になっているから、カエデの実のように風にのって遠くへ飛ぶことはないようだ。
 というこのシナ、実は北海道ではかなり多く分布しているらしい。近似種のオオバボダイジュとあわせると、北海道の広葉樹の中で3位の蓄積量になるという。カバの類が1位、ナラ類が2位に次ぐ3位なのだそうで、だからかシナのハチミツもたくさん採れる。オオバボダイジュは近くの山林ではあまり見かけないが、以前に運営していたキャンプ場に一本割合立派な樹があった。シナに較べると葉が大きいのですぐに見分けがつく。
 話は少し横道にいくが、ぼくはいま風力発電所建設の反対運動をやっている。わが村を取りまく内輪山の尾根上に、ふたつの事業者が40基もの風車を立てる計画を発表している。それも国民のために大切に保存する役割を持つはずの国有林内であり、「保安林」に指定されている特別なエリア内だ。最近の風車は高さが150メートルもある巨大なもので、建設に必要とする道路なども含めると100ヘクタール以上の山林を破壊することになる。村と小樽市や余市町との境界一帯は、環境省の調査では自然度9ということになっていて、これは山林としては最高ランクになる。調査書には一帯は「イタヤカエデ・シナノキ群落」とあり、カエデとシナの極相林として国が認めるエリアなのである。わけ入れば巨木が並ぶ貴重な森林があるはずで、大切な国民の財産なのだ。
 風力発電の業者は、説明会などでは必ず地球環境の改善のために必要な事業なのだ、と意義を強調するのだが、それを口実に企業利益を目的にしているのは明らかで、欺瞞的で悪質だ。近年北海道は風力、太陽光の施設が乱立しているのだが、作られた電気は結局本州に運ばれることになっている。北海道はいまや「エネルギー植民地」になりつつある。どれだけの山林が破壊され、どれだけの自然が蹂躙されているのかを思うと心が痛む。環境省が公認するわが村のシナノキ群落もいまや破滅の危機に面しているのである。
 ところで、シナは昔からよく使われてきた役に立つ用材だ。語源のシナがアイヌ語の「しばる」からきているという説があるぐらいで、シナはその内皮を撚ってロープを作ることができる。東北地方にはいまでもこの技術が継承されていて、本格的に使うことができるしっかりしたロープになるという。水に強いので船舶のロープに適しているのだそうだ。同じ内皮を細かい繊維にして布に織りあげることも可能で、アイヌの人たちはこのシナ布で衣類を作った。アイヌの服、というと一般にアットゥシ織と言われるが、こちらはオヒョウの皮から作られる布のことだ。交易が始まって日本の木綿が入ってくるまで、長い間衣類の原料は木の皮だった。植物から作られるこのような布のことを「古代布」と呼ぶらしい。
 山形へ行った時、どこかの民芸店で「てんご」という木の皮で編んだ手提げ袋を見た。シナの皮から作られる伝統的な工芸品で、昔は普通に使われる日常品だったようだ。持ってみると思いがけず軽いが、店の人に言わせると雨など水分にも強くて長持ちするのだそうだ。しばらく前、極楽鳥見物にパプアニューギニアを旅したのだが、中部山岳帯の奥地で、子供にアメをあげたらそのお母さんが自作のカゴをくれた。このカゴがやはり木の皮製で、山形の「でんご」とそっくりだった。
 シナの皮はそんな風に有用だが、もちろん木材としてのシナもよく利用されている。ぼくは家具工房時代に、主として引き出しの側板としてシナを使ってきた。それほど強度のある材ではないし、耐久性もどうか分からないが、材質がすなおで比較的柔らかく、扱いやすい。引き出しの内部材に適しているのだ。淡い黄色味をおびたシナ材の穏やかな性質は、山に立つ時の清楚な姿を反映しているようにも思える。また、タンスや本棚のような「箱物」を作る時には、裏板にシナベニアを使うことが多かった。裏とはいえ、安いラワンベニアではなく、高級品はシナベニアを使う。あるいは、ぼくはあまり利用しなかったが、シナ材を薄くスライスして合板の表面に張った「ランバーコア」もよく使われている。
 引き出し材としてたくさんストックしていたので、工房を譲ったいまも倉庫にいっぱいシナ材が眠っている。これを使って最近は木製のおもちゃ類をよく作る。風の力で動くからくり玩具のようなものがおもしろくて、たくさんできた時は販売もする。弱気の値付けなので、時給300円ぐらいに相当するのだが、近頃唯一の生産的労働収入なのである。
 最近の新聞記事で知ったのだが、北海道で有名な木彫りの熊は、アイヌの人たちが始めたのではなく、明治の頃になって道南の八雲という所で発祥したそうだ。このあたりの開拓を受け持った尾張徳川家の人がスイスを旅した時に熊の木彫りを見つけて、農家の冬仕事にいいのではないかということで持ち帰った。それから始まった八雲の熊の木彫りだが、これがシナ材を使ったのだそうだ。かつては北海道土産の代表だった熊の木彫りだが、最近ではすっかり影が薄くなっている。そこで一念発起、八雲の有志の人たちが復刻に向けてがんばっている、そんな記事だった。豊富な木材の中からシナ材を選んだ、というのが興味深かった。
 ところで、シナノキは英語でもドイツ語でも「リンデン」という。というのはなんとなく誰でも知っていると思うが、これは多分昔のあのヒット曲、『リンデンバウムの歌』の影響だろう。それがどんな木なのか知らなくても、「リンデンバウムの大きな幹に・・・・」と歌われると野原の見事な大木が想像される。ましてやあたりでは忘れな草が咲き、ナイチンゲールが鳴き、角笛の音が聞こえる、のだから、西欧憧憬歌謡曲としては完璧だ。人前で歌うのはためらわれるが、一度聞けばすぐ覚えてしまう。
 リンデン=シナノキを歌った曲としてはしかし、本場ドイツに本格的な歌曲が控えている。いわずもがなのシューベルト、『冬の旅』だ。歌曲王シューベルトによる19世紀中頃の名曲で、ぼくたちの世代では学校の音楽の時間に必ず歌わされたものだ。渋谷区立外苑中学の音楽室は2階の奥の方にあって、Mという暗い顔した男性教師が担当していた。2年生の時の音楽の試験が、この『冬の旅』を独唱する、というもので、指名された生徒は前に出てMのピアノにあわせてひとりで歌うのである。誰が指名されるか分からないから大変で、やむをえず自宅で練習することになる。なので歌詞などすっかり覚えてしまい、百年も前のことなのにいまだに歌える。「泉に沿いて茂る菩提樹/したいゆきてはうまし夢みつ/幹には彫りぬ愛の言葉・・・・・」という具合である。指名されて歌う生徒には地獄だが、それを聞く生徒にとっては抱腹絶倒の歌謡ショーなのであった。
 しかし、調べてみるとこの『冬の旅』5番はそれほど甘い歌曲ではないらしい。失意の青年が旅する時に水辺のリンデンの木に出会うのだが、そこには「死への憩い」の誘惑が待っている。ある解釈によれば、リンデンの木で首を吊る暗喩が秘められている、とのことだ。実際、この曲を作った頃のシューベルトは31歳の死の近くにきていて、陰鬱な状況だったらしい。数々の美しい旋律を残したシューベルトだが、梅毒と腸チフスというあまり詩的ではない病気で死んだということだ。
 ・・・シナノキ話がとんでもない所まで来てしまった。


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#07 (2024.7)
(7)ミズナラ  キング・オブ・フォーレスト

「草地のナラ」落葉期の姿
 ナラは森の王者である。
 ナラはいつも力強く堂々と枝を張り、 たくましい幹が大きな骨格を支えている。林にあってはまっすぐ上に高く背を伸ばし、単独では左右にのびのびと手を広げる。姿は場所によって自在だが、ナラはいつも対面するぼくたちを安心安堵させるような強い力を持っている。その安定感、力感は、もちろんその無骨な樹姿がもたらすものだろうが、半分は木材として親しんできた背景によるのかも知れない。林にはいつもどこにでもナラがある。実際、北海道では広葉樹林の15パーセントがナラだそうで、実感的にはもっと多いのではないかとも思う。なので、少しでも木や林に興味を持つなら、最初に覚える樹種だとも言える。
 裏山を歩くと、林の最前線には先駆種のシラカバなどが多いが、一歩林内に入ればすぐにナラが目につく。林の木たちは競争なので、どれも少しでも日光を受けるべく上に伸びようとする。だから林のナラは幹径に対して背が高い。今はやや細長だが、競争に負けなければやがて太い幹の大木に育つ。人の手が加わらなければ樹齢は300年にも、あるいは500年にも達するはずだ。質実剛健のまさに森の王者なのである。
 わが家のすぐ裏には2ヘクタールほどの牧草地がある。かつて動物を飼っていた頃の名残で、ここは放牧をする場所だった。この草地の一番奥に、一本のナラの木が立っている。ずっと昔、峠に至る開拓道路があった場所で、林を拓いて道を作った時に、残された木のひとつなのではないかと思う。道沿いの古木、というのはよくある例で、もちろんわざわざ植えたものではなく、伐採を逃れる幸運がもたらしたものだ。
 この草地のナラこそ、いまぼくたちの領土内でもっとも大きくて立派なナラだ。樹齢は分からないが、まずはざっと100年には達しているだろう。もしかしたら200年、とも思いたいが、外形から樹齢を推測するには限界がある。根元の外周はぼくの両手が半分も回らないから、およそ5メートルほどもある。単独で育ったからだろう、このナラは素晴らしく均整のとれたいい姿をしている。地上5メートルあたりから放射状に枝を広げていて、その上に主幹は見当たらない。まるで花火のように空に向かって枝を思い切り伸ばした形だ。勇壮にして剛健、抜群の安定感を持った名樹なのである。名前をつけてもいいのかも知れないが、いまのところ「草地のナラ」といえばこの木を指すことになっている。羊や牛や馬を放牧していた時代には、この木が作る木陰にたくさんの動物たちが集まっていたものだ。
 北海道大学の人が調べたところによると、森のナラでは直径70センチ以上のものは、すべて樹齢200年を越えているという。80センチ以上となると、樹齢300年以上にもなるらしい。木材業者によってねらい打ちされてきたので、大径木は数少なくなったが、いわゆる「暴れ木」は業者の手から逃れられた。用材を取るのには幹が通直のものがよく、横に枝を張った木は価値が低いからだ。草地のナラはそういう事情で生き残ったのかも知れない。昔はきっと樹齢500年、もしかしたら1000年というような老巨木があたりに茂っていたのだろう。
 ところで、ここまでただ「ナラ」とだけ呼んできたが、正式な樹種名は「ミズナラ」という。ぼくたちの地域にはミズナラしかないので、ただナラと呼ぶが、北海道にはもう一種「コナラ」がある。北海道の中央部がコナラの北限で、札幌市内に小規模な純林もあるらしい。コナラは日本に広く分布するナラで、本州北部からミズナラと混在し始める。しかし海を渡って北海道にくれば、もう圧倒的にミズナラの世界だ。温帯の寒冷地にはこちらが適応している、ということなのだろう。もう一種、ブナ科コナラ属に属するのがカシワで、開拓以前の平地はこのカシワの大木におおわれていたという。隣町の余市のある離農跡地に一本の立派なカシワが立っていて、その方面に行くと車を停めて見物することにしている。
 昔、日本の山村には「里山」という領域があって、山林と人の暮らしが密着していた。里山の木々は薪や炭になり、シイタケのホダ木になった。中でもナラの類は伐採後の萌芽力が強いので、定期的に伐られ、利用と再生のサイクルで活用されていた。薪炭林、と呼ばれることもある。しかし、ナラ類の利用はそれぐらいまでで、日本の文化では広葉樹を住宅や家具に使う役割は限られていた。
 里山については近年さかんに賞賛される。たしかに人と山の親密な結びつきではあるが、「農用林」だから見方によっては収奪一方の利用とも言える。長い間利用された里山は次第に貧弱な生態系に至り、結果としてマツなどの特定の木しか生長できないような山になった。里山礼賛の一方でそういう側面もあるらしい。「里山」と名づけた四手井綱英さん自らがそう言っている。
 一般に、日本は木の文化に伝統があり、優秀な技術があり、高度な木造建築が残されている、と言われる。それはたしかにそのとおりだと思うが、しかしそれは端的に言って「針葉樹文化」だ。なかんずく、中核的にはヒノキの文化ではないかと思う。仏像の歴史では初期のクスノキを別に、一貫してヒノキが使われてきたし、建築でも千年を超える法隆寺の五重塔などは、ヒノキがあってこその耐久性だといわれる。木の文化全体の中ではもちろんヒノキ以外も、あるいは部分的には広葉樹も使われたはずだが、それでも主流はやはり針葉樹にあった。木材を利用する技術もそれに応じたものになり、道具用具の類も柔らかい針葉樹に対応して発展した。現代の視点からすれば、広葉樹を利用せず、ナラのような優秀な木材をただ薪や木炭にしていたという、極めてもったいないことをしてきたように思える。
 ミズナラが広く用材として注目を浴びるようになったのは、明治になって西欧の文化が入ってきてからのことだ。西欧式の住環境が広まるにつれ建築にも家具類にも広葉樹、つまり「硬木」が使われるようになっていった。「西洋の目」を通してナラ材という優れた素材を再発見した、ということになるのだろうか。それとは別に、北海道にはナラをめぐるもうひとつの歴史がある。それは海の向こうのずっと遠く、イギリスのナラ事情と関連のあることだ。
 イギリスでは歴史的にナラが重要な木材として扱われてきた。「キング・オブ・フォレスト」と呼ばれ、国樹ともされている。ナラの英名はまずはざっと「オーク」ということになるが、少し前まで翻訳では「カシ」と表す習わしだった。イギリスのオークにも種類があって、たしかにカシに相当する種もある。日本のミズナラは「コモン・オーク」ということになるはずで、これは伝統的な英家具に欠かせない用材だ。イギリスの海外進出の歴史は古いが、その船舶によく使われたのが「セイサル・オーク」であり、おそらくこれは日本のコナラに相当する。コナラはミズナラよりも硬くて扱いにくいが、木造戦艦の骨組みにはこれが適したらしい。18世紀にはかなりの数の戦艦が作られたが、一隻に千本単位のオークが使われ、その分の林が伐採された。
 歴史を下るにつれイギリスではオーク材を大量に使い続け、結果として次第に材不足になっていく。そこで始めたのがひとつは植林だが、広葉樹の植林はもともとイギリスの伝統だ。対応のもうひとつは海外からの木材輸入だ。その中で、イギリス人ははるか北海道からやってきたミズナラ材を見て歓喜した。それはイギリスのオークとまったく同じかそれ以上の優れた木材であった。そこでイギリスは北海道のナラを本格的に輸入し始め、明治以降昭和に至るまで注文し続けた。大雪山系の麓、旭川は製材で有名な場所だが、ここではずっと「インチ材」と呼ばれるナラの製材が行われ、イギリスの家具業界に材料を提供したのであった。日本ではいま、イギリスのアンティーク家具が有名で専門店などもあるらしいが、そこで販売されている英国家具の用材は、もしかしたら北海道のナラ材なのかも知れない。世界に誇るわが北海道のミズナラ材なのである。ちなみにウィスキーを貯蔵する樽の素材もまたこのミズナラがベストとされる。用材に含まれるタンニンがウィスキーに独特の香りをもたらすのだそうだ。
 オーク材はアメリカに行くと「レッド」と「ホワイト」に区分されたりしていて、このあたりになるとその分類や和名へのリンクはもうよく分からない。なにしろナラの仲間は世界に300種もある。ちなみにわが家の床は全部がアメリカ産のオーク材フローリングで、厚さが3/4インチ(19ミリ)になっている。おそらくレッドオーク材だと思うのだが、正確なところは不明だ。95年に建物を建てる時、節約のためにアメリカに行ってあれこれ建材を仕入れた。業者と交渉して、床材も200坪分を購入した。仕入れ値が日本の価格のおよそ半分だったので、コンテナ輸送をしても割安だった。
 ところで、北海道のミズナラはぼくにとって大変親しみのある木工材料だ。50年前に飛騨で田舎暮しを始めた時から、およそ30年にわたってぼくは家具作りをしてきた。この仕事の中でナラ材は主要な用材だったし、特に北海道に移ってからは上等な道産のミズナラを割合贅沢に使ってきた。家具の工房はその後弟子の京都在住U君に譲り、ぼくは引退するのだが、いまこれを書いている机はもちろん、わが家には相当な数のナラ材家具がある。いまとなっては入手がむずかしい広幅の柾目板で、見事な「虎斑」の出た材のテーブルや箱物などもある。虎斑はナラ材特有の「斑」のことで、銀色の光沢を見せるので「銀杢」ともいう。英語では「シルバー・グレイン」と表現するらしい。
 ナラ材は強度と耐久性のある広葉樹材だが、しっかり乾燥させれば狂いも少なく、比較的加工もしやすい。木目がきれいなので、クリア塗装をしてもステイン着色をしても、立派に仕上がる。家具の用材としては最も優れているのではないかと思う。当然日本でも家具メーカーによって大量に使われており、次第に良材が不足してきている。日本の林業政策はでたらめで、天然林を伐採してむやみと針葉樹を植えるのが国策だから、広葉樹材の不足は当然のなりゆきだ。ナラだけでなく、ブナ材も近頃では不足してきて、曲げ木イス用にコナラを使うようなことも試みられているという。ぼくはいま、新たに伐採した隣町のカラマツ林の後に、ナラの植林をすべく交渉中なのだが、そもそも広葉樹を植える習慣のない林業のシステムを相手に色々と苦労している。
 広葉樹林が衰退している日本の山林にあって、更に暗いニュースが、本州各地に広がっている「ナラ枯れ」だ。これはその名のとおりナラの木が枯れていく現象で、昆虫に運ばれた菌がナラを枯らす。病名を「ブナ科樹木萎縮病」というが、「カシノナガキクイムシ」というごく小さな虫が「ナラ菌」を運び、木は水を吸い上げる機能を失うという。関西圏はひどい被害らしいが、次第に北上して青森まで来たという情報もある。北海道のミズナラにまで被害が広がらないといいのだが、なにせ近年の異常気象、温暖化だから心配だ。
 もうひとつ心配なのが、近年のドングリの不作だ。ナラの実、ドングリの不作は全道的なことらしくて、新聞で報道されたりしている。実際に林を歩いてもまったくドングリが見当たらないのである。このところ2年連続でドングリが不作だから、木の実に依拠する動物には死活問題だ。特にヒグマにとっては冬眠前の大切なエネルギー源だから、不作となれば食料を求めて山から下りてこざるをえない。ところが、少しでもクマが出没すれば世の中は大騒ぎになって、危険だ!駆除せよ!の大合唱になる。クマの側に立つ発言は少なく、ドングリ不足や山の荒廃というそもそもの原因やその対策についての論考をあまり目にしない。ナラの実が不作になって困るのはもちろんクマだけではなく、リスやカケスも同様だが、なによりナラの木自体の繁殖にも影響するはずだ。前述のようにぼくはいま、ナラの木植林の交渉中なのだが、苗木の入手がますますむずかしくなるのでは、と心配している。

昔の木陰風景。道産馬フジコがなつかしい。
 ナラの繁殖はもちろんその実、ドングリが要だが、それがどう運ばれるかの研究をした人がいる。ナラの繁殖に最も貢献するのは、エゾアカネズミというネズミなのだそうだが、しかしわが家周辺ではこのネズミを見たことがない。そのかわりに圧倒的に多いのが困りもののエゾヤチネズミだ。このネズミはドングリを巣穴に持ちこみ、冬期間に完食してしまうらしい。庭木を始めあらゆる樹の幹や枝をかじる宿敵エゾヤチは、ドングリを一方的に食べるだけなのだ。その点で好ましいのはエゾリスやカケスで、この連中は冬期の食料としてドングリを分散して隠し、その場所をよく忘れてしまう。落ち葉の裏などに隠して忘れてくれれば、ドングリは無事発芽発根して育つことができる。カケスはカラスの仲間で、決して品がいいとはいえない鳥だが、北海道のカケスはミヤマカケスといい、それなりにきれいな配色をしている。ナラの繁殖に協力するのであればあの下品な鳴き声はこの際許そうではないか。
 ドングリは木の実としては群を抜いて大きい。もちろんクリやトチのような更に大きい実もあるが、一般の樹木種子としては相当に大きい。シラカバやハルニレのように小さな種を翼果として、たくさん遠くへ飛ばすのではなく、数は少なくても確実な新苗を育てる作戦なのだろう。動物の助けも借りて、一旦どこかで発根発芽すれば、大きな種が持っている養分を使って力強く成長できる。たとえ上部がふさがれて陽光が少なくても、逆境に耐える力を親からもらっている。もちろん途中で力つきる新苗もあるだろうが、基本的にしぶとく生き抜くタイプの種子であり、樹種なのである。
 動物だけでなく、ドングリは縄文人にとって貴重な食料だった。また、東北地方では戦前まで飢饉の時にはドングリを食用にした、とも記録にある。しかしクリと違ってドングリはタンニンが強くて、そのままでは食べられないはずだ。トチの実同様に、アク抜きの手間のかかる作業をして、粉末にしたのだろうか。話は違うが、「イベリコ豚」などという食通好みのブタ肉があり、このブタは西欧各地でドングリを与えて育てているのだそうだ。
 イベリコ豚を育てる計画はないが、わが家にはドイツから来たナラが一列整列している。これはかってドイツを旅した時に拾ったドングリを植えたものだ。ライン川を源流から河口まで下る、というテレビ番組収録の移動中だった。場所は詳しく覚えていないが、田園地帯のどこかに一本のとても立派なナラの木があって、その根元にたくさんのドングリが落ちていた。ポケットいっぱいに拾ったドングリを冷温貯蔵し、翌春にポットに植えてみた。うまく芽を出したので、翌年に裏庭の牧草地の境界に並べて植えたのである。ところがこの苗は中々大きくならなくて、人の背丈になるのに10年もかかった。さすがにドイツ、結構気むずかしいナラなのである。同じ場所にいまも20本ほどが並んでいるが、その中で2本だけがかなり大きく育っている。おもしろいのが、その2本がいずれも以前植林したドイツトウヒのすぐ近くにあることだ。これはきっとドイツ仲間の助け合いなのではないかと、半分冗談でそう話している。菌根菌の働きやネットワークについて読んだところなので、なおさらそう思うのかも知れない。
 もっともこのナラたちはいつまでたっても実をつけることはなく、きっとはるか異国に連れてこられた恨みからだろう、かたくなに繁殖を拒否している。どこまでも頑迷なドイツのナラなのである。


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#06 (2024.6)
(6)シラカバ <高原の白い貴公子>?

以前経営していたキャンプ場の様子
 たしかにシラカバはとても美しい樹木である。
 どういう進化の経緯でかくも樹皮が白くなったのか、そのあたりの事情はよく分からないけど、ともかく、その白い肌は際立って美しい。特に新緑の頃の緑の洪水の中では、素晴らしいコントラストを作る特別な樹種だと思う。きれいなシラカバだが、ぼくの見るところ単独でポツリとあるよりも、林のようにまとまった数が立ち並ぶ風景がより見事に思える。なので、「シラカバは団体の木である」、まずはそう言っておきたい。
 シラカバの白い肌について調べてみると、この樹皮には「ベチュリン」とかいう化合物が含まれていて、だから白いのだそうだ。ベチュリンには強い抗菌作用があるのだともいう。シラカバに尋ねれば、ただ白いだけじゃないんだぞ、と胸を張るだろう。図に乗って「キシリトール」だって採れるんだぞ、ぐらい言うかも知れない。まあ言わせておこう。アイヌ語でシラカバは「レタッタッニ」="白い樹皮のとれる木"といい、樹の皮であれこれの容器を作ったらしい。樹皮には油分が多く、防水性に優れるため、屋根を葺くのに使われることもあったという。実際にやってみると、樹皮はおもしろいようにぱりぱりはがれて、大きく取ることができる。
 というような白く美しい肌を持ったシラカバだが、その評価にはふたつの立場というか意見というか見解があるように思う。ひとつは、言ってみれば「東京の見解」である。これはひたすらシラカバを持ち上げてありがたがる立場で、もちろん東京にシラカバはないから、近くの信州のシラカバ林を礼賛するのである。その代表が『風立ちぬ』の堀辰雄である。
 『風立ちぬ』は、「シラカバとサナトリウムと軽井沢」がアイコンの小説で、最初に読んだのは高校生の頃だった。なんだか気持ち悪りいなあ、と即座に思った。変な女言葉や妙な文体に背筋がゾッとしたし、「風立ちぬいざ生きめやも」とか言われて途方に暮れた。「生きめやも」なんていう日本語あるのかしら。主人公はなにかというとシラカバの根元に寝転んでしまうのだけれど、軽井沢のシラカバ林はどこも下が芝生になっているのだろう。
 それはともかく、問題は東京人のシラカバである。なるほど信州では軽井沢を始め、八ヶ岳とか上高地とか、あるいはあちこちの「高原」にシラカバ林が見事な姿を見せている。長野県は南北アルプスや八ヶ岳などがある山岳県だし、その山々を背景にした高原地帯も多い。長野では標高が800メートルぐらいからシラカバが育つのだそうで、結果として「シラカバの高原」が存在する。ぼくは中学の頃から山登りを始めて、高校大学と山岳部に所属した。なので信州の山々にも高原にもなじみがあり、思い出も多くある。信州のシラカバ林の美しさにひとまず異論はない。ただ、あまりに自信満々「日本一」などと言われると、ついちょっと言いがかりをつけたくなる。信州の豊かだった山林地域は昔から伐採が進んで、裸になった山にカラマツの大植林をし、あるいはシラカバが自然拡散して現在に至る。軽井沢や八ヶ岳山麓あたりの風景はそんな背景を負っているのだ。つまり、「風立ちぬ」の風景は、信州の原風景とはいえないのである。
 ということなのだが、すぐ近くの大都市、東京のあの混沌雑踏に暮らす人たちにとって、それでも信州の風景はやはり憧れの地であり、シラカバはありがたい樹木になるのだろう。よかろう。
 では、大都市東京から千キロ北にある北海道のシラカバはどうなっているか。信州で礼賛され、時として「高原の白い貴公子」などと持ち上げられるシラカバはしかし、北海道にくるととたんに身分を失う。貴公子はせいぜい平民、庶民、大衆、ぐらいのものになって、そこらにごくありふれて立っているのである。「平凡に美しく」というのもまたいいものだし、いかにも飾らない北海道らしい樹木といえるかもしれない。実際、北海道の風景の中ではシラカバはどこにでもごく当たり前に存在していて、むしろシラカバのない風景を見つけるのがむずかしいくらいだ。わが農場をとりまく山林にも、とりわけ林縁には無数のシラカバがあり、たとえば目下、ぼくは千本ぐらいのシラカバ所有者なのかもしれない。
 実は千本どころではなく、数万本の所有者だった自慢話を加えよう。いまの住まいや農場と少し離れた場所に、以前ぼくたちはホテルを所有していた。すぐそばを渓流が流れ、木立に囲まれ、軽井沢級に素敵なホテルだった。ここは鉱山の跡地で広大な面積があったのだが、その一部、国道沿いにかなり見事なシラカバ林があった。新緑の中をドライブする人が、カーブを曲がると突然出現する見事な林にびっくりし、あわてて車から降りて記念撮影する、そんなところだった。シラカバの純林というのは北海道でも珍しいのだが、由来を知らぬままそういう林を所有していた。そのシラカバ林に連続して、これまた広大なカラマツ林があったのだが、ある時このカラマツをそっくりまとめて業者に売却してしまった。カラマツという樹種について、あるいは林業経営について、伐採にまつわるあれこれにそれぞれ意見があった上での判断なのだが、それらはまた別の機会に陳述する。

プロの植林風景 背後はここでもシラカバ
 ともかく、カラマツを大規模に伐採したのだが、その跡地の一部に、「相当に異例なこと」と森林組合の人が言うところの「シラカバ植林」を強行した。ホテルやキャンプ場近くを走る平坦で見晴らしのいい10ヘクタールほどの土地だったが、ここにシラカバの純林を作って通行する人たちの目を楽しませよう、そういう見上げた企画だった。森林組合に頼んで苗を手配し、数千本のシラカバ苗を植えたのだが、あまり前例のないことなので、植林後にどうなるか確たる展望がなかった。種の飛来による天然更新はいわば樹木の意思による生育だが、植林は環境条件を無視してそれを強制するものだ。もしかしたら育たないのでは、と業者の人たちと話したのだったが、それからおよそ10年、なんとか育っているようだ。
 育っているようだ、と頼りないことを言うが、実はこのシラカバ植林のすぐ後になって、ホテルと敷地全体(百万坪!)をまとめて売却してしまったのだ。いまや自分のものではなくなったシラカバ植林地だが、昨夏に国道を通過した時には雑草の背丈を超えて若木が育っている様子だった。いずれ立派なシラカバ林が出現するものと期待している。孫たちよ、ずっと将来、たとえば50年後に、国道393号線、「明治」地区あたりにシラカバ林を見たら、それは君たちの祖父が植えたものだと思ってくれ。
 シラカバはいわゆるパイオニア・プランツ、先駆樹種だ。山火事とか河川の氾濫とか土砂崩れとか、あるいは大規模な伐採跡地とか、とにかく新たに出現した空白の土地にいち早く種を飛ばして育つ樹種だ。日当たりのいい場所を好むが、あまり地質を選ばず生育する。パイオニア樹種だから生育は早いが、その分寿命は短くて、百年にも至らず樹齢を終える。その間に下草に混じってじわじわ育つのが、ナラであり、カエデであり、タモやニレやクルミのような基本樹種だ。やがて林はそれら広葉樹の世界になり、時としてエゾマツなどの針葉樹をまじえた本来の姿になっていく。いま、村のあたりで新しいシラカバ林を見るのは、多くは離農跡地、耕作放棄地である。開拓者が拓いた村の農地だが、百年経って再びもとの山林に還っていく、ということかもしれない。シラカバが「過去への先駆樹種」になる、というのも皮肉でおもしろい。
 ほかの木々と同じく、シラカバも春に花を咲かせる。枝から棒状に下がるのが雄花、そのつけ根のあたりで上向きに小さく咲くのが雌花。風媒花だから、雄花は無数の花粉を放出する。北海道では杉花粉ではなく、こちらが花粉症の原因といわれている。受粉した雌花はやがて実を結び、ここからまた多数の種を放つ。よく見るとうすい羽根のようなものを持った小さな種で、風に乗って遠くへ飛散するようにできている。開けた土地に無事着地すれば、そこに根を張ることができるわけだ。シラカバと同じカンバ属のハンノキも同じ生態だと思うが、川のそばや湿地ではシラカバよりこちらが多い気がする。
 というわけで身近に親しいシラカバなのであるが、改めて見直せばやはり美しい樹木である。新緑の緑の中で、その白い幹が立ち並ぶ姿は何年見ても新鮮で感動的だ。秋の紅葉も林全体に広がればやはり独特の情緒に満ちるのである。シベリア、スカンジナビア、アラスカ、と世界の各地でシラカバの木を見てきたが、日本のシラカバがもっとも情緒的で美しく思える。大陸北部の荒涼酷薄たる風景にあるまばらなシラカバと、北とはいえまだ温帯アジア圏にあって、自然の豊穣を背景にすることの違いなのだろう。
 シラカバはきれいで個性的な樹種だが、木材の利用からするとあまり役に立つ樹ではない。爪楊枝とかアイスクリームのヘラとか楊枝とか、情けない用途しかなくて、きわめて低い身分の樹である。ところが、よく似た同族の樹でウダイカンバになると、これが途端に上等な木材になるから不思議だ。ウダイは別名マカバと呼ばれ、木工家からはむしろこの名で呼ばれる良材だ。かつて木材市で試みにマカバを一本落札したことがあるが、製材に立ち会って感動した。中心で割ってみると、心材の割合が思いがけず広く、その赤みのある肌が見事に美しい。マカバは時として「カバザクラ」などと呼ばれることもあるのだが、たしかにサクラ材に似たような色つやなのであった。この時の材料を使ってイスや小テーブルなどを作ったが、そのいくつかがいまでも家にある。
 ところが、このマカバ(ウダイカンバ)を山で見つけようとすると、これが中々むずかしい。北海道でも平地よりも少し山に入った場所にある樹種らしいのだが、情けないことにシラカバとの見分けがうまくできない。葉が大きいとか樹皮の様子がシラカバとは異なっているとか言われるのだが、もう一度レクチャーを受ける必要がありそうだ。
 さてもう一度シラカバに戻ってみると、脈絡ぬきに「北国の春」という歌を思い出してしまう。「シラカバ♪あおぞら♪みなみかぜ♪」と歌うのだが、あれはあれで結構名曲なのではないかと思う。まわりに人がいなければ、ちょっと歌ってみたくなるいい曲だ。調べたら色々な人が歌っていて、英語の歌詞まであるらしい。英語の演歌はどうなるか、探し出して聞いたら、ちゃんと歌になっているからおかしい。歌った歌手がそうだから、ぼくはこの歌が東北地方を歌っているのだと思っていた。しかし、調べると作詞家は信州佐久の人で、みずからの故郷をイメージしたのだという。東京から中央高速で2時間の「故郷」というのはうまくないので、やはり岩手のずっと奥の方を偲ぶ歌にしてほしい。
 もうひとつ、「走れトロイカ」というのもある。「雪のシラカバ林♪夕日が映える♪走れトロイカほがらかに鈴の音たかく♪」というロシア民謡だ。誰が訳したのか知らないが、トロイカが「ほがらかに」走る、というのは秀逸だと思う。調べてみると、この曲のオリジナルは、ぼくらが知るあのテンポよりずっと遅く、どちらかというと暗く悲しい曲らしい。恋人を金持ちの地主に奪われる青年の歌、ということで、「金色夜叉」みたいな話らしい。テンポをあげて歌声喫茶の合唱曲にしてしまったのは、これもやはり大したものである。
 シラカバ界隈をぐるっと見回したが、ちょっとだけ追加しておきたいのがシラカバを実用にする試みだ。上記のようにシラカバは材木としてはあまり役に立たず、林になればきれいだからそれで十分、とするのがおおむねの見解だと思う。
 しかし近年、北海道のあちこちで「シラカバ樹液」というのが特産品として販売されるようになった。北のわが同胞のやることだから、それはそれでいいと思うのだが、しかしぼくに言わせるとこれがまるっきり無味無臭のただの水なのである。味覚が未発達の野人だといわれればそうかもしれないが、実際に樹液を採って飲んでの感想である。各種ミネラルに富み、飲料以外にも化粧品などにも利用できる、と強調する人もいる。本当なら大変で、なにしろシラカバは無数にあるし、まったく無料の原料だから素晴らしいビジネスになるはずだ。ぜひがんばっていただきたい。
 もうひとつ、これは一過性だったのだが、シラカバに寄生するある種のキノコが、万病に効く特効薬だ、という話だ。ロシア語で「チャーガ」、和名がカバノアナタケというキノコで、根元ではなくシラカバの幹に寄生するものらしい。と言っても本当にレアで、そうそう収穫できるものではない。だから幻のキノコとも森のダイアモンドとも呼ばれる。実際に見るとただの黒い塊だが、これには抗がん作用があり、免疫力アップにもなり、あらゆる疾病に効果があり、かつすこぶる高額なものらしい。
 という話がわが村に流入したのは10年ほど前のことだが、これを聞いた村人は一斉に山に飛びこんだ。みんなでクマザサをかきわけて、シラカバの木をひとつずつ点検して回ったらしい。運良く発見した人もおり、不運な人もいたのだが、問題は収穫をどこへ売ればいいのかが分からないことだった。自分で飲んだり身内で売買したりしているうちにいつしかブームは終わってしまった。いまでは話題にもあがらない。
 白い顔してすましているが、あれでシラカバも中々くせ者なのである。


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#05 (2024.5)
(5)クリ <大きなクリ木の下で>

秋のクリ三兄弟。
クリは落葉が遅いので新雪で被害を受けることもある。
 年輪を重ねた大きな木は、風雪に耐えて長く生きのびてきたという、それだけでもう十分の価値がある。古木の幹は年月を重ねるうちに傷つき、あるいは亀裂が走り、伸ばした枝も必ずしも整った姿ではないかもしれない。しかしそれでも、黙して佇むその姿には独自の風格や威厳が漂う。古木老木は無条件に敬意をはらわれるべき存在だ、そんな風に思っている。
 わが農場には、訪れた誰もが感銘感嘆する3本の老大木が、悠然泰然と並んでいる。
 そこは農場の入り口から正面の高台で、樹種はクリ、推定樹齢は百数十年だ。幹の直径は1メートルを越え、四方に伸びる枝はそれぞれかなりの長さになる。横一列に並んだこのクリ三兄弟の全幅は、樹冠全体で30メートル以上あり、大型の二階建て住宅ほどのボリュームだ。四季折々いつ見ても圧倒的な存在感をもってそびえており、いわば農場の重心のような存在だ。
 北海道ではクリは南の方に分布していて、石狩低地帯あたりが北限らしい。わが村には天然のクリは生育しておらず、だからこのクリは人によって植えられたものだ。その太さ巨大さからすると、相当に古いものであるには違いなく、きっと開拓期に入植者の誰かが植えたものだろう。そう思って近隣の村人に尋ねるのだが、なにしろずっと昔のことなので確かなことは分からない。
 わが赤井川村における和人の入植は明治時代になってからのことで、その前は当然アイヌの人たちの領域、アイヌモシリだった。興味深いことに、更にその前の時代、縄文時代の石器や黒曜石の刃物なども近辺でたくさん出土している。ちなみに、「赤井川村」という村名はアイヌ語のフレベツ(赤い川)をもとに作られたらしい。フレベツ村の方がずっとよかったのに、と思う。
 『村史』によれば、明治初期に余市川を遡っていくつか鉱山が開かれ、やがてカルデラ盆地の内部、「赤井川原野」の払い下げが始まる。一定期間の間に開墾に成功すれば、国がその土地を払い下げる、という制度があったようだ。資料には、この払い下げに応募した人の中に、香川県出身のYさんという名前がある。我々が買収したこの農地が代々Yさん一族の所有だったことは確かなのだが、果たしてYさんがこの場所最初の入植者だったかどうかは不明だ。というのは別の情報もあって、「日清戦争から帰還した屯田兵たちが余市町にいて、そのグループがお宅のあたりへ入植したはずだ」というのだ。
 香川からの移住者か日清戦争の屯田兵か、そのどちらかが我々の農場を最初に拓いた人で、どちらかがクリの三兄弟を植えた人、ということになるのである。いまではもう確かめようがないが、時代だけは割合はっきりしていて、いずれも明治28(1895)年から明治29年の頃のことだ。入植してすぐに植えたとするなら、いまからおよそ130年前ということになる。
 というわけで、推定樹齢130年の大切なクリの木なのだが、その歴史のいまに続く40年は我々が共にしているのである。
 明治の頃を起点に、重鎮クリの大木は長い歴史を経てきたわけだが、季節とともに脈打つ生命のサイクルは昔も今も少しも変わりはない。北海道の長い冬は一年の半分を占めるが、どんなに厳しい冬であっても、春になれば必ず枝先から新芽が生まれて新しい年の活動を始める。クリの木は他の木とくらべて春の動きが遅いので、時として心配になることもあるのだが、でも大丈夫、やがてしっかりと全体が淡い緑におおわれる。雪の中で枝たちが黒々と裸の四肢をのばしていたのが、生まれ変わったように緑の樹冠を回復するのである。新緑の後、6月になるとそこにはたくさんの花が咲き始める。淡い黄色の花は遠くからでもすぐに目につく大きな下垂状のものだ。20センチにもなろうという垂れ下がった花は、実は雄花で、雌花はその付け根の方に小さく咲く。クリはブナ科には珍しく虫媒花なので、昆虫を引き寄せるための派手な花の姿であり、同時に強い匂いもある。飼育されているミツバチもクリの花に来るが、クリの蜜は独特の匂いと色から必ずしも高級品とはされない。
 ハチやアブなどのポリネーターの働きで受粉したクリの花は、やがて緑の小さな実をつける。誰もがクリと聞けばただちにクリの実を思い浮かべるように、秋の収穫期はクリの木のハイライト場面だ。果樹はどんな種類でも樹上に実ったものを収穫するが、クリだけは例外で、地面に落ちた果実を収穫する。樹上ではイガに守られていたクリの実は、地面に落ちるとトゲのある外皮が割れて中の実が顔を出す。老大木3本が実らせるクリはそれはそれは大量で、次々と枝から落ちてやがて樹冠の下にはびっしりと実が敷き詰められる。
 10月は収穫の季節だ。地面に落ちたクリの実を、リスと競争しながら拾い集める。艶やかな“クリ色”の実はどれもきれいでおいしそうだ。わが家のクリはいわゆる「シバグリ」あるいは「ヤマグリ」で、自然分布している樹種だ。だから栽培種のような極端に大きいクリではないが、それでも中国クリよりは少し大きくて、つまり十分に食用になるサイズだ。ただ、結構多くあるのが実にあいた丸い穴だ。これは主にクリシギゾウムシという虫が開けた穴で、内部が痛んでいるのでその実は食べられない。ゾウムシというのは1センチほどの甲虫で、頭から長い口吻が伸びていて、その姿からゾウムシの名がある。ぼくは連中が地上に落ちたクリの実に穴を開けるのだとずっと思っていたが、そうではなくて、どうやらクリの実がまだ樹上にあって、緑のうちに成虫が卵を産むらしい。卵は実が成熟する頃に孵化し、その幼虫が穴を開けて実の中に潜入するのだそうだ。どおりで地面を探してもこのゾウムシがみつからないわけだ。
 毎年秋になるとクリ拾いをする習慣だが、しかし時々心配になる。樹木にとって花や実の生産はかなりエネルギーの負担になるはずで、ましてやクリのように大きくて糖度の高い実を作るのは大変なのではないだろうか。木は自らの命が危うくなると、最後の力を振り絞って花を咲かせ実をつけて子孫を残す、そんなことが言われる。クリの豊作は嬉しいが、もしかしたらこれは最後の余力なのではないか、かすかにそんな不安がかすめるのである。なにしろ百年を越えた老木だしなあ、と思うのだが、収穫が嬉しくてやがて忘れてしまう。
 ともあれ、肥料もあげないのに毎年たくさんの実をつけて、おまけに地上で収穫ができるのだから、クリは実にありがたい果樹である。満点をあげたいと思うのだが、しかし問題はイガから出したその実の、きれいな茶色の包装にある。これを鬼皮というが、この皮をむかないことには中にあるおいしい果実に到達できない。鬼皮の下に更に渋皮などというやっかいな皮もあって、この皮むきの作業こそがクリを少し面倒な果実にしている。
 クリの皮むき専用のハサミみたいなものも市販されているが、どれもそれほど使いやすいとはいえない。クリご飯もクリきんとんも、マロングラッセだって、まずは皮むきから始めなくてはならない。大きな樹冠の下でわいわい言いながらのクリ拾いは楽しい行事だ。しかし収穫を家に運んでからは、ひたすら皮むきの単調な作業が続くのである。皮をむかないで食する方法となると、焼き栗という作戦があるにはある。皮をむかないというより、皮が自動的に実からはがれる、というべきか。焼き栗というのはフランスやイタリアの街角で売っていて、冬の寒い日にほふほふ言いながら食べるのがおいしい。なんて知った風に言うが、旅の途上のほんのわずかな見聞。
 そのイタリアの田舎を旅している時、「農協の店」のようなものがあった。珍しい農具系の商品が色々あって、立ったままアスパラを収穫するハサミとか、リンゴ収穫専用のバッグとか、見るだけで楽しかった。その時に購入したのが「焼き栗用フライパン」である。そう店員に言われなければ分からない一品で、普通のフライパンに小さな丸い穴が点々と開いているだけのものだ。クリを入れて火にかければ、クリが焼けて自ずと跳ねまわる、のだそうだ。イタリア人の言うことはあまり信用できないが、帰宅してから実験すると、これが本当なのであった。ガスコンロでも火のまわり具合がちょうどいいらしく、パチパチとはぜて見事に焼き栗ができあがる。以来「カチカチ山」ならぬカチカチフライパンを愛用してクリを楽しんでいる。最近、東京にある「ファーブル記念館」を訪ねたのだが、地下にファーブルの生家の復元があって、暖炉の横にこの穴あきフライパンが下がっていた。イタリアで買ったものは薄い鉄板でできているが、ファーブル家のものはずしりと重い鉄製で、時代を感じさせる存在感だった。
 ことほど左様に、クリは西欧でも古くから人の暮らしにしっかり定着した果実であった。北半球に広く分布しているクリが食用にされるのはいわば当然で、人類史の中で長く続いた狩猟採取時代の主要な食品のひとつだった。日本でも、縄文時代にクリが食用されたことが遺跡から明らかになっている。青森の三内丸山遺跡に行くと、中央に六本柱の巨大な建造物が復元されているが、このシンボル的建物の柱はクリ材だそうだ。直径が1メートルもある柱だが、遺跡の穴がそのサイズだったらしい。すごい巨木を使ったものだ。ここではクリを採取するだけでなく、植林されていた形跡もあるという。話は飛ぶが、遺跡内にある資料館を見学すると、「北海道・赤井川産」と表示されたヤジリが展示されている。わが村で作られた黒曜石のヤジリが海を渡って青森まで行ったということで、なんだかちょっと誇らしい。
 縄文時代からクリは食用にされ、建築材に使われた、ということなのだが、クリ材には然るべき優れた特徴がある。最大の長所は腐食に強い、ということだ。「アリス・ファーム」は半世紀前に飛騨山中、「有巣」部落で誕生したが、放棄された古い農家を数軒借り受けて最初の暮しを始めた。いまにして思うと、それらの農家はさすが飛騨の古民家というべき立派なものだった。柱はヒノキ、梁や横物はヒメコマツなどで、思い切り太く重量感のある木材が使われていた。そして、この立派な建物の土台がクリ材なのである。建物に重量があるからか、基礎は大きな石を並べただけで、その上にクリの土台が乗る、そういう作りだった。土台は一番地面に近い所にあり、雨や湿気によく当たるはずだ。だから腐食や虫害に強いクリ材が選ばれたのだろう。
 腐りにくい、という特徴をよく表しているのが、鉄道の枕木に使われるクリだ。かつて鉄道の枕木はほとんどがクリ材だった。それがコンクリート製のものにどんどん交代していったので、一時中古の枕木が大量に出回った。北海道に移転した頃がその時期だったので、ぼくたちはたくさんの枕木を安く入手して利用させてもらった。地面に敷いて歩道にしたり、フェンスの支柱にしたりだったが、いまでもそのまま残っているものも多い。実にクリ材は立派な木材なのである。
 ところで、農場の中心にあるクリの三兄弟にはいま、ふたつの工作物ができている。ひとつは三本の根元を結ぶ木製のデッキだ。クリが作る大きな木陰は、ゆっくり腰かけて過ごすのに最適な場所で、夏の暑い日でも爽やかな風が吹き抜けていく。羊蹄山を眺めながらお茶を飲める、大変贅沢で快適なスポットだ。

ツリーハウス。
クリ本体に力がかかる点は一カ所のみにした。
 もうひとつはツリーハウスで、何年か前に「孫たちのために」という名目で、手伝いなしのひとりで完成させた。大切な老木に負担をかけないように、幹に接する部分をほんの少しにして、目立たない工夫をした柱で建物を支えている。
 追記すると、昨2023年はクリの木受難の年だった。クリを食草とする蛾、クスサンが異常発生したのだ。
 クスサンはヤママユガに属する大型のガで、幼虫も8センチもあってそれが白くて長い毛におおわれている。この毛をゆさゆさ揺らしながら歩くのでシラガタロウなんていう名前もついている。目立つ毛虫だからずっと前から知っているし、横にあるブルーの点々もおしゃれな配色でかわいい、と思っていた。幼虫はやがてサナギになるが、クスサンのサナギは一風変わっていて、外側の繭が網目状で中が見えるようになっている。どうしてこんな風通しのいい繭を作るのか不明だが、その姿からスカシダワラなどと呼ばれる。サナギはやがて大きな成虫に羽化して飛び立つが、下の羽根には丸い目玉模様があって、これはガやチョウによくある天敵への防御なのだろう。
 というクスサンだが、この幼虫がもっぱらクリの葉を食草とするのである。クリ以外も食べると言われるが、実際にはもっぱらクリが主食で、クリケムシと呼ばれるぐらいだ。いつもの年なら少数だからなんとなく眺めていられるのだが、昨夏はその数が半端でなく、クリの木にびっしりとついて、団体でワシワシと音をたてて葉を食べるのだった。幼虫のフンが頭上から降ってくるので、デッキに座ることもできず、葉を失ったクリは木陰を作ることもできなくなった。農場のクリ兄弟の他にもいくつかクリの木があるのだが、それらも一斉に丸裸になったのである。
 クリの木を食べ尽くした幼虫は当然サナギになり、やがて成虫になって飛び回ることになった。なにしろ大型のガだからこれが乱舞するとすごい迫力で、灯火のあたりは近づくのが恐ろしいような様相だった。報道によるとクスサンの乱舞は札幌のような都会でもあったらしく、地下鉄駅入口の写真などが掲載されていた。もっともクリの木もたいしたもので、クスサンの幼虫がサナギになるために去ると、すぐにまた新芽を出して、やがてまた緑を回復した。収量は少なかったが、いつものように秋の収穫もできたので、外形上はもとどおりだが、木への負担はやはり大きかったのではないかと思う。
 昨年は春先からマイマイガというガの幼虫も大発生していて、それに続いてのクスサン騒動だった。ずっと田舎に暮らしていると、時々はこういう自然の乱調に出会うこともあるのだが、昨今の温暖化の予兆に神経質になっていることもあって、いささか気の重い現象であった。


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#04 (2024.4)
(4)生垣の話 続き

 前項でイチイの生垣について悪口を言ってしまったが、それはぼくの住むあたりを見回した印象であって、内地で見るようなよく手入れされたイチイ生垣は、端正な緑の立体としてそれなりに見事なものだ。彼我にどういう違いがあるかというと、端的に積雪の問題だろう。つまり、積雪のある地域での生垣は、そもそもからハンディを負っているのだ。だって、たとえばわが家では黙っていても2メートル以上も雪が積るのだから、当然生垣の上にもその雪が乗る。この重量に自力で耐える生垣というのはありえないから、どのようにガードして冬を越すか、それが勝負になる。この時、冬にも葉をつけている針葉樹というのは耐雪上圧倒的に不利だ。
 わが家のカツラの生垣は、葉を落とした晩秋に、専用に作った木製の大型「すのこ」のようなもので両側からはさみこんでいる。アルファベットのA字型に養生をして雪に備えるわけだ。カツラは葉を落としているし、枝も柔らかいのでこういうことができるのだが、イチイとなると中々こういう冬囲いはむずかしく、色々方法はあるのだろうが、どうしても雪のダメージを受けてしまう。おまけにイチイは成長が遅いから、痛んだ部分の回復に時間がかかる。北海道のイチイ生垣がハンサムでないのは、こういう事情によるのだろう。
 雪の影響を受けない、あるいは影響が軽微な内地では、生垣は広葉樹、針葉樹ともに広く樹種を選ぶことが可能だ。そもそも温暖な気候だから自生する樹種も多く、イチイの他にもマキやキンモクセイ、ツゲ、ヒバ、イボタなどたくさんあるし、アラカシやカイズカイブキなどは背丈の高い生垣に使われるようだ。京都や奈良を歩くと、それはそれは見事な生垣に出会って、やっぱり内地にはかなわないなあ、とちょっと敗北感を持ったりするのである。別に京都や奈良と戦っても仕方ないのだが、やはりくやしい。
 京都からもっと遠くへ行って生垣を眺めるなら、やっぱりイギリスだろうか。イギリスの生垣、というとすぐに「ヘッジ」とか「ヘッジロー」というような単語がネットに出てくる。ただ、ヘッジローというのはぼくたちが生垣として連想する種のものではなくて、田園地帯で見かける放牧地の区画のようなものを指すはずだ。
 イギリスやアイルランドの田舎を旅すると、緑の牧草地とこのヘッジローのラインが風景の中心になっていて、もちろん道路との境界も同じヘッジで区画されている。車から降りてよく見ると、たしかに植物による垣根ではあるけれど、まず樹種がかなり混ざっているし、かなり乱暴に木をねじ曲げてある。刈り込んで形を作るというよりも、灌木の枝を編むようして作られているのが分かる。樹種についてはよく分からないが、ぼくの見た範囲ではヤナギが確認できた。そして、この混み合う雑木の枝先を、槍のように思い切り鋭く剪定してあって、それは垣根を越えての侵入を防御するかのようだ。羊や牛などの動物たちに対して、この鋭い枝先は十分効果があるだろうし、囲い込む役割を果たすのだろう。ヘッジの幅も相当に広く、2メートル近くありそうだ。
 イギリスの旅で買った本のひとつにこのヘッジローについてのイラスト本があったのだが、残念ながら手元に見当たらない。その本にはヘッジの歴史や作りかた、そこにできる生態系などについて細かく記されていた。生垣に咲く花、実る果実、巣を作る野鳥、などが紹介されていた。そのヘッジも近頃ではどんどん減って金属フェンスに代わっているらしく、伝統を惜しむノスタルジーに満ちたいい本だった。
 というわけでヘッジローとは牧場の囲いのことなのだと思うが、では庭の生垣をどう呼ぶかというとこれもまたヘッジというらしい。イギリスのある園芸書には「単数の植物で作るのはヘッジ、複数の植物を組み合わせるのがヘッジロー」とあるが、しかし他の本では小さな低い生垣もヘッジローと呼んでいるから、言葉では両者の区別はできないみたいだ。それはともかく、生垣は西欧の庭でも実に多様に使われていて、樹種は日本よりずっと多いように思える。イギリスの種苗カタログを眺めると、花や野菜の種に混じってヘッジ用樹木苗のページがある。それによれば、イチイやツゲ、ニシキギやヒイラギ、ツバキ、月桂樹などが並び、ベリー類やバラなども生垣用に紹介されている。実がなったり、花が咲いたり、葉色がにぎやかだったりとかなり多彩だ。生垣を楽しもうとする姿勢がとてもいい。いわゆるフォーマルガーデンなどにある幾何学模様を作る低い生垣はイチイやサンザシ、ツゲなどが使われるらしい。刈り込みに強く、葉が小さいことが条件になるのだろうか。イチイは「ユー」、サンザシは「ハー」と呼ぶらしくておもしろい。
 遙か遠くイギリスへと空間を飛んだので、ついでに今度は遙か昔へ時間を飛んで、70年前の横浜の生垣へ行ってみたい。
 ぼくはどこかよく分からない外国で生まれたことになっているのだが、たしかな記憶が始まるのは幼児期の横浜の家だ。横浜市の郊外、白楽という場所に家があって、和洋折衷の平屋建ての住宅だった。記憶では家も庭もかなり広かったように思うが、子供の頃の記憶のスケール感というのは実際と結構違っているので、あまり確証はない。最近、その頃通った横浜山手にある聖公会の教会を訪ねたのだが、記憶とはまるで違って、びっくりするぐらい小さくて情けない建物だった。だから横浜の家も庭もたいしたものではなかったのかも知れないのだが、ともかく幼児期のぼくには大きな世界でありフィールドだった。
 敷地の前面には割合広い道路があり、裏側には川が流れていたが、そのほぼ一周が生垣で囲まれていた。生垣は「マサキ」の木で作られていたのだが、これは当時最もポピュラーなものだったと思う。近所のどの家もマサキの生垣に囲まれていたように記憶している。ぼくが最初に覚えた樹木の名前もこのマサキだったに違いない。マサキはいまでも使われるのだろうが、これといって特徴のない平凡な低木だ。おそらくその強健さを買われて多用されたのだろう。
 少し成長して関東学院の小学校に通うようになったが、学校ではお坊ちゃま、帰ると下町少年とのつきあいの毎日だった。勇敢で下品なS君が当時のぼくの先生だったが、彼が当時熱中していたのが「ホンチ」というクモの戦いだ。横浜に限った伝統らしいが、野生のクモどうしを戦わせるゲームがあって、少年たちはそれぞれクモを捕まえては飼育し、戦いに挑むのだった。ホンチはハエトリグモの一種で、オスは好戦的で相手とがっぷり組んで戦うのだ。マッチ箱に入れて持ち歩き、戦い用の大きめの紙箱は駄菓子屋で売っていた。「ホンチ箱」と呼んでいたと思う。
 このホンチがいるのが生垣のマサキだ。春になるとその年の自分のホンチを獲得すべく、少年たちは生垣を丹念に見て回った。ぼくは小さかったから親分の後をついてあるくぐらいだったが、偶然自分でホンチを捕まえると嬉しかった。せいぜい1センチほどのクモだが、それなりに個性があり風格のようなものもあった。S君から二級品をもらって自分なりにかわいがったりもした。ホンチは正式にはネコハエトリというクモで、巣をつくらずに獲物を捕獲する肉食の戦士だ。クモを嫌う人もいるが、ぼくはこの少年期の経験があるので、割合クモが好きだ。ハエトリグモ類は北海道にも普通にいて、たまに見かけるとちょっと声援を送りたくなる。
 というわけで横浜の住まいと、そこにあったマサキの生垣と、そこにいたクモの話なのであるが、幼児期から少年期にかけての記憶として、これらは結構しっかり根をはっている。この横浜の家には広い庭にそれなりの数の庭木が植わっていたはずなのだが、その中で特に覚えているのが「アオギリ」の木だ。緑がかったすべすべの幹の木だったと思うが、これがぼくの木登り専用の木だった。なにがおもしろかったのか、よくこの木に登ってあたりを見回していた。台風が来る予報があると、家では雨戸を打ちつけたりしていたが、ぼくは揺れる木に登ることを最大の楽しみとして待つのであった。台風の日に登ったアオギリが風で大きく揺れ、それに身を任せた時の快感は、いまでも身体の芯の方に結晶しているように思える。
 アオギリの他でよく覚えているのは、イチジクの木だ。それなりに大きく枝を張った木で、実がなると収穫しては家族で食べたのだが、ぼくはこの果実がすごく嫌いだった。この木は葉や枝を折ると白い粘液が出て不気味だったし、木があった場所が川のそばの陰気な所だったからも知れない。70年も経つのに、いまだにイチジクは苦手だ。
 思い出ついでに記しておけば、玄関先にあった大きなヤツデの株、自分より背の高い白いバラの茂みなどもその色合いとともに記憶の中に浮かんでいる。いま、ぼくの庭には種名の分からないブッシュ状のバラがいくつかあるのだが、それがなぜか横浜のバラとよく似ている。一緒に庭を歩く母親に「横浜の家にもこんなバラがあったよねえ」と言うと、5分ぐらいたってから突然大声で「あー!あったあった!」と答えた。100歳の記憶にも眠るバラなのであった。


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#03 (2024.3)
(3)カツラの香り
 防風林のためのトウヒ苗木を別にすると、初めてお金を払って買ったのがこのカツラの木だ。漢字で「桂」と表す日本屈指の名木だ。
 札幌の植木屋さんNさんを訪ねたのは、庭作りのごく初期の頃だった。一般的に言うと「植木屋さん」はお屋敷に庭木を植えたり剪定したりをする人、ということになるが、Nさんはそういう職人さんではなくて、庭木の販売を専門とする、いわば「植木販売業」とでもいう人物だった。札幌郊外に広い「土場」をもっていて、そこには様々な庭木が植えてある。値札はついていないが、どれも販売用の木で、土の下ではいつでも移動可能なように「根巻き」がされている。Nさんに案内してもらって、土場の木々を見て歩くのは楽しい体験だった。それぞれがどんな樹種で、どんな特徴があるのか、直接解説を聞くと、図鑑で見るのとは違うリアルで新しい木の情報だった。
 二回目の庭木見学の中で、思い切って購入を申し出たのが一本のカツラの木だった。6メートルほどの樹高で、枝がのびのびと上に広がっていて、気持ちのいい姿をしていた。おそるおそる値段を聞くと6万円とのこと、それぐらいならなんとかなりそうだ。植木屋さんで庭木を買うなんて、なんだか分不相応な気がしたが、土場の庭木の中では比較的小さかったし、多分値段もぼくの懐に合わせてくれたのだろう。
 というわけで、このカツラがわが庭最初の記念樹になった。山の林道脇に生える小さなシラカバを引き抜いてきて植える、ぐらいの経験はあるが、しっかり根巻きがされた庭木を植えるのは初めてのことだ。根巻きとは根の部分を一定の大きさに切りそろえて、そこを麻布で包み、同じく麻の縄できつく巻いた状態をいう。木の樹高に応じて根巻きの大きさも決まるが、あらかじめこうしておけば、運んですぐに植えつけることができる。根に巻いた麻布も麻の縄もそのままで植えてよく、やがて土中で分解して根が伸びるのをじゃましないという。
 札幌からトラックでやってきたカツラを、できあがったばかりの庭用地に定植したのだが、その風景はいささか寂しいものだった。用地は南に向かって土を移動しているので、一帯はかなり心土が多く、つまり赤茶けた様相をしている。その南の角に目印的な木がほしいと思って植え場所を選んだが、粘土をただ広げたような殺風景な地面に植えられたカツラは、まるで略奪された令嬢のごとく、その可憐な枝や葉を振るわせるのであった。ましてやさえぎるもののない吹きさらしの丘の上である。教えられたとおりに支柱を立てて保護したものの、寒風にさらされてなんだかとても気の毒な姿であった。さぞかし札幌の穏やかな日々が恋しかったろう。
 実際、この第一号カツラはすぐに下の方の枝が枯れ始め、翌年になると更に枝枯れが進んで将来が危ぶまれた。それでも木全体としてはなんとか耐えて生き残り、5年もすると新しい枝を伸ばすようにもなった。下は赤土、上は寒風、という過酷な環境によく生き延びてくれたものだ。
 それから40年、このカツラは今でも同じ場所に生きていて、決して見事という樹姿ではないが、まずまずの大きさになった。樹齢のわりには幹などやや老木風だが、それもやむをえないだろう。今では後から来たカエデやシナ、コブシなどと並んで穏やかに同居している。きっと昔の苦労をみんなに話しているのだろう。
 カツラの木は、庭木としての人気ではかなり上位に位置しているのではないかと思う。大きくなるので庭を選ぶだろうが、その上品な樹姿からしてファンは多いはずだ。ずっと以前だが、ある著名な評論家の家を訪ねたら、そこの娘さんが、「私の名前が桂子なので、母が庭の中央にカツラを植えたんですよ」と言っていた。立派な姿のカツラの木を眺めながら、さすがの名家に名木であること、と感銘したものである。(注)
 カツラの魅力は、まずその葉にあると思う。ハート型の薄緑色の葉が、枝にきれいに整列していて、そのたたずまいが美しい。春先の新芽や花はやわらかな紅色をしていて、長い冬の終わりを祝うかのように華やいで見える。やがて新緑の淡い緑になるが、天気のいい日に見上げると、ハート型の葉の重なりが見事な緑の濃淡で、きままな散歩を祝福してくれるかのようだ。

車道沿いのカツラ生け垣。それなりに手入れが必要。
 秋になると葉は黄色に染まるが、この時期には葉から独特の香りが生まれる。木の周辺にほのかに甘い香りがただようのである。このキャラメルのような香りは「マルトール」というらしく、お菓子を作る時に使われる香料と同じだそうだ。「香りが出るから=香出ずる」でカツラという名前になったという説もある。
 カツラは樹種としてはかなり古いものらしく、資料によれば「白亜紀から生き延びた樹木」とのことだ。北半球に広く分布した原始的な樹種だが、現在では中国と日本にのみ分布している。北海道では最も樹高が高くなる樹種だという。ただ、どうしてなのか分からないが、ぼくの住む村には天然のカツラが見当たらない。林業の業者に聞いても、「村にはないね」とはっきり言う。もしかしたらかっては分布していたものが、伐採後の天然林では再生できなかったのかも知れない。再生が難しい樹種だとどこかで読んだ記憶もある。
 ぼくがカツラに会ったのは、実は彫刻材としてのカツラ材が最初だ。ずっと昔、田舎暮らし一年目に、飛騨高山で彫刻教室に通ったのだが、その先生が教材としてカツラ材を用意してくれた。よく研いだ彫刻ノミを使うと、カツラ材はすいすいと刻むことができて、とても気持がよかった。彫刻用材には一般にホウとカツラが使われるが、材の品格としては圧倒的にカツラが上だと思う。くすんだ木色のホウに比べてカツラの肌は赤みを帯びて美しく、特に優れたものはわざわざ緋ガツラと呼ばれるぐらいだ。
 飛騨時代の最後の頃には広幅のカツラ材を入手して、喫茶店のイスを作った。背板全面に彫刻をした、いわゆる「ペザント・チェア」だった。カツラの香りは紅葉の葉だけでなく用材にもあり、作業は楽しいものになった。「鎌倉彫」の材料はカツラだし、アイヌの人たちはこれで丸木舟を作ったという。見た目だけでなく、実用としても優れた木なのだと思う。
 そしていま、わが家にはかなりの数のカツラが植えられている。数にすると200本を越える。なぜそんなに沢山カツラがあるかと言うと、庭の生垣にこれを使っているのだ。公道からカエデの並木を通って、車道が庭のエリアに入るあたりから、左右にずっと生垣を作って建物や庭のゾーンを独立させている。最初は広々とした芝生の奥に建物があるように風景を作ったつもりだったが、庭木が道沿いに少ない分、どうもアプローチが殺風景に思える。道の近くに木が少ないのは、冬期間に機械で雪を飛ばすためで、これはやむをえない。
 そこで生垣を考えたのだが、防風林の時と同じく生垣についても知識も手がかりもあまりなく、イチイ以外の生垣見本も近くに見当たらなかった。イチイは樹木としても用材としてもとてもいい木だが、その生垣では成功例をあまり見かけない。印象が暗かったり、すき間が多い生垣だったりするのだ。なにか広葉樹で適当な木がないものかと、思案をしていたら、誰かからカツラの生垣の話を聞いた。よく記憶していないが、どこかの公園で作ったカツラの生垣が見事だった、というような情報だった。そこで、苗木を扱う業者に問い合わせてみると、カツラの苗が入手可能なことが分かった。じゃあやってみよう、といささか短絡的にカツラ生垣に挑戦することにした。

カツラの広幅厚板を使ってカフェの看板を作った。
 生垣初年度はずいぶん前のことだ。苗木をおよそ100本、40センチほどの間隔で道沿いにずらりと並べて植えた。教科書には支えの竹組が必要とあったので、その通りにやったが、後になってこれは不要だと分かった。カツラの苗は防風林のトウヒより更に小さくて、本当に鉛筆のようなものだったが、すごいことに植えた全部が活着して年を越すことができた。特別な配慮したわけではないから、きっと土壌や気候がカツラに合ったのだろう。生育も早くて数年でもうかなり密になり、上部を刈り取る必要がでてきた。生垣用の両手バサミを用意して上端をそろえて切ると、どうしてなかなかの生垣ではないか。植える前はカツラのような大木に育つ木を、せいぜい胸高の生垣にすることにためらいのようなものがあったが、カツラは見事に対応してくれた。その後両手バサミはエンジン式のヘッジ・トリマーになり、いまでは全部足すと100メートルを越える距離の見事なカツラの生垣になっている。
 春が嬉しいカツラの生垣、わが庭の自慢のひとつである。
(注)白州次郎、正子家のこと


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#02 (2024.2)
(2)ドイツトウヒ ・・・「防風林」の話
 丘の上に住宅用地ができて、 次に取りかかったのが防風林、屋敷林を作る作業だ。
 防風林を作る、と言葉では簡単にそう言うのだが、実際は木の苗木を植えて、後はひたすらその成長を待つ、気が遠くなるような遠回りの試みだ。植えてから形が見えるのに少なくとも10年、林らしくなるのにおよそ20年はかかろうという、地味で迂遠な作戦である。
 時間がかかるのはやむをえない、この丘に骨を埋めるつもりで取り組めばいい話ではないか。そう豪語してみるのだが、さて具体的に考え始めるとこの防風林作りのノウハウというものがまるで見当たらない。わが村のどこにも人家をとりまく屋敷林のようなものはなく、わずかに畑の境界に並ぶ木の列があるばかりだ。それらも十勝平野にあるような、大規模で見事なカラマツの列ではなく、どちらかというと敷地境界を示す役割ぐらいに見える。実際、入手したばかりのわが農地と隣の農家との境界にはヤチダモの木が一列に植えられていて、それが多少は風を防ぐ役割もしているようである。
 東北地方に行くと、一面に大きく水田地帯が広がっていて、そこかしこに屋敷林に囲まれた農家が点在している。広い農業地帯に点々と住宅が分散しているのを「散村」といい、住宅が集まるのを「集村」と呼ぶのだそうで、屋敷林はこの散村型の地域に見られるようだ。車で走りながら眺めると、杉とおぼしき太い木が整然と並んでいて、その大木が地方の歴史の厚さを表しているようだ。杉の大木、というだけでもう北海道から来た身には別世界だが、その内にある屋敷の見事さにもまた感銘する。そもそも屋根が瓦葺きというだけで異国に思えるのであって、北海道ではどんなに立派な家でも屋根は決まってトタン葺きなのである。
 用事があって宮城の農村地帯を何度かドライブしたが、その時見た屋敷林が当面唯一の手がかりである。もっとも、東北の水田地帯で見る屋敷林はいずれも建物にかなり近接していて、いささか窮屈な印象がある。農家にとっては住まいなどよりも農地をできるだけ広くとるのが当然なのだろう。いずれにしても北海道には杉はないし、林の内側に広い庭があってその一部に建物を作るつもりだから、東北の屋敷林とは少しイメージが違う。
 というようなわずかな見聞を多少の参考にしつつ、さてどう取り組むか、思案どころであった。まずは杉ではないどんな樹種を選ぶのか、というのが問題だ。当然ながら、屋敷林には通年にわたって防風の役割をしてもらわなくてはならない。だから、冬に葉を落とす広葉樹は候補から除くことになる。では針葉樹の中からどれを選ぶか、ということだが、実は北海道ではそれほど選択の余地はない。針葉樹といえばまずエゾマツかトドマツか、普通この2種になる。落葉するカラマツはだめだし、イチイは成長が遅くて選択範囲には入らない。
 エゾかトドか、と思いあぐねていたら、木に詳しいある人から鉄道の防風林にトウヒが使われる、という話を聞いた。密な樹冠を作るし、成長も早いという。おまけに見本がすぐ近くにあるというではないか。話を聞いてすぐに行ったのが隣の余市町から仁木町を通過する函館本線である。線路わきだからそれほど大きな林ではないが、よく見ればそれぞれ端正な姿の針葉樹である。すべての木がそろって同じ大きさで、まるで儀仗兵が整列しているかのようだ。近づくと葉は意外に柔らかく、深い緑色をしている。この鉄道林を見て、ぜひこれと同じトウヒを植えたい、そう思った。
 調べてみると、北海道で植林されるのはドイツトウヒ(ヨーロッパトウヒ)という種類らしく、しかしそもそも北海道のエゾマツやアカエゾマツはマツ科のトウヒ属に分類されていて、兄弟のような関係らしい。ちなみにトドマツは同じマツ科でもモミ属に入るという。トウヒの英語名はスプルスで、この名は本業の木工の仕事で用材として馴染みがある。家具作りに使うスプルスは、北米産のトウヒでシトカスプルスと呼ばれるらしい。
 北海道は木の国だからいわゆる造林の事業も活発で、植林用苗木の生産も大きい規模で行われている。富良野方面の苗木生産会社に電話で問い合わせてみると、ドイツトウヒも扱ってますよ、とのことだった。ついでに値段を聞くと安いのに驚いたが、後で届いた苗木を見てなるほど値段相応かなと思った。

トウヒ植林当日の写真がみつかった。
春の風がとても強い日のことだっ た。
 80年代が後半に入る頃、この頃はわがファームのメンバーが一番多かった頃で、その全員を動員して一大植林イベントをやることになった。人数は集まったが、ぼくを含めて全員が植林初体験だ。素人集団の指導者が大学演習林に勤務するNさんで、彼の指導のもとに作業の開始である。まずは届いた苗木だが、これは束ごと前日からバケツの水に浸けてある。それをばらすと、一本ずつは鉛筆ほどの細さでおよそ頼りない。背丈50センチほどの弱々しい苗だ。これを地面に植えるのだが、指導者は「植林クワ」という特殊なクワを使う。畑で使うクワよりも幅が狭く肉厚のもので、これを地面にえいえいと数回打ちこみ、その土を上に掘りあげて止め、できたすき間に苗の根を入れこむのだ。土の間に斜めに苗を差し込む、という要領である。苗を入れたらクワを抜き、苗を上に引きながら両足で根元を固めるのである。えいえいから始まっておよそ30秒ほどだろうか、あっという間の作業である。このプロのエイエイ植樹は思い切りの力仕事だが、ベテランになると一日五百本も千本も植えるらしい。
 ところが我々はまったくの素人であり、そもそも植林クワも持っていない。見本は示されたが結局普通のスコップで地面に穴を掘り、そこにひとつずつ苗を植えていくしかない。固い地面での穴掘りは重労働で、半日もやるともうへとへとで、大勢いても半分は座りこんでいる有様だ。人海戦術をもって一日で1500本全部を植えるつもりだったが、結局当日と翌日午前までの一日半の作業だった。参加した長男・有巣君、次男・仁木君ともに、寒くて大変だったこの日のことをよく記憶しているという。
 敷地およそ3千坪の南側と西側の二方向に、それぞれ三列の線状に苗を植えた。苗と苗の間隔は両手を広げた距離である。もちろんこれは将来の間伐を前提にしたもので、最終的には三本のうち一本が残るぐらいの数になるはずだ。
 ・・・・・・それからもう40年に近くなる。植えた苗木はすくすく育ち、今では立派なトウヒの防風林が完成している。樹高は20メートルに達し、太いものでは幹の直径が50センチ近い。まずは大木といっていい大きさである。期待どおりトウヒは生育が早く、枝も大きく広がってくれた。防風の効果は抜群で、強風の日でも建物敷地に入れば、ほわりと無風の空気に包まれるのである。
 成長したトウヒはやがて実をつけるようになった。いわゆる「松ぼっくり」、球果だが、日本のマツの実とは違ってかなり縦長の姿をしている。トウヒの「松ぼっくり」は、鳩時計に下がる重しそのままの形だ。というのは当然で、鳩時計(本名はカッコー時計)のもともとの産地はドイツの「黒い森」地方であり、そこはまさにドイツトウヒの森の一帯なのである。
 トウヒの”松ぼっくり”はもちろん子孫を残す種のためのもので、折り重なった襞の間に羽根のついた実が隠されている。そのままにしておけば、やがて風が種を飛ばすことになるが、その前にやって来るのがまずエゾリスだ。夏を過ぎると散歩の度にリスたちが樹上でキキキと鳴き、犬たちが木を見上げて吠える。もう一種、ちょっと嬉しいのが野鳥のイスカだ。オスたちの赤い姿が魅力的だが、なにより、クチバシが松の実をこじあけるように進化していて、上下がたがいちがいになっている、その特殊さが興味深い。
 という風に見事に育ったトウヒの防風林なのだが、いくつか悩みもある。ひとつは、かなり試みたはずの間伐なのだが、どうも不十分だったようで、木と木の間隔が狭く感ずるのである。いまからでも間引きをしようと思うのだが、大木になると倒す時のあたりへの影響も大きくてずっとためらっている。

現在の様子。一番奥がトウヒの防風林、その手前が北米のカエデ林、
建物の手前がカツラの生け垣。
 もうひとつは、庭を囲むトウヒを眺めわたすと、上部で二股になっている木が多い。針葉樹は基本的にまっすぐに主幹が直立するものであって、二股はかなり異常な状態である。ひとまず防風の役には立っているし、木の健康に問題があるとも思えないのだが、やはり気になる。本当かどうかは分からないが、針葉樹が二股になるのはカラスが原因だという。カラスが木の先端に止まると、その体重でそこがポキリと折れる。すると、その下にある二つの枝が左右に伸びてやがて二股の木になるのだそうだ。そういえばカラスはよく木の先端に止まるし、時としてより歓迎すべきタカの類が頂上からあたりを睥睨していることもある。
 というわけで、ちょっとした悩みもあるものの、わが家とわが庭はこのトウヒの防風林、屋敷林に守られて日々の平和を維持しているのである。


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#01 (2024.1.12)
 アリス・ファームのホームページをちょっと間借りして、新しい連載を始めさせてもらいます。
 タイトルは上記のように「グランパ樹木記」で、内容もタイトルどおり「グランパが語る樹木の話」ということになります。ぼくがこの40年に植えてきた樹木について、孫たちに語り伝える、ひとまずそういう主旨あるいは建前なわけです。
 いうまでもなく樹木というのはものすごく長いライフサイクルを持つわけで、ぼくがいま植える若木は、孫かその次の代ぐらいになってようやく成木の姿を見ることになります。ぼくは現在の住まいや庭がそのまま200年ぐらいは維持されると期待をしているわけですが、もし希望どおりになったとしたら、そこには巨木、老大木が大きく枝を張っているはずです。でもその頃にはもうそれらがいつ、どんな風に植えられたかを知る人はいないかもしれません。
 フォスターの『ハワーズ・エンド』にはあるニレの木の話が出てきます。州で一番の立派な木で、幹にブタの歯がさし込んであり、その樹皮が歯痛に効くというような話です。今の自分の住まいがハワーズ・エンドのように時を重ねた時に、ブタの歯や歯痛はともかく、そこにある樹木にもそんな小さなストーリーがあったら楽しいだろうな、と思ったりします。
 ストーリーとまでいかないまでも、その木を植えた時のいきさつなどをメモし、ついでにその樹種について知ることをまとめておこうと考えるわけです。最近は調べ物をしてもすぐに忘れてしまうので、忘備録のような役割かもしれません。
 というわけで、相当に私的な樹木記ですし、どこまで「ネタ」が続くか、あるいはぼくの集中力が続くか分かりませんが、ともかくスタートしようと思います。

(1)プロローグ 宅地と庭が決まるまで
 ぼくが住んでいる赤井川村は、北海道の中央部、石狩湾沿いの小樽や余市に隣接する小さな村だ。人口千人の村は、いわゆる「カルデラ地形」の内輪山の中にあり、わが農場はその西端のゆるやかな丘の上にある。
 今から40年ほど前に、人が住まなくなったひとつの農家を譲り受けたのだが、それから隣接農家が離農するたびに徐々に敷地が広がっていった。一帯の農家は「3町3反」という面積が基準らしく、それは多分、国が農民に農地を払い下げた時の規格なのではないかと思う。北海道のスケールからするとやや小さい農地だが、大概は裏にある山林も所有するから実際の面積はその何倍かになる。そういう農家を4件分引き受けたので、わが農場はおよそ30町歩(30h)ぐらいの面積になった。というとずいぶん広いようだが、十勝や道東の広大な農場に比べればささやかなものかもしれない。面積として言えばそういう比較になるのだが、農地の広さは実はその土地の生産性と対比するものなので、ただ数字を比べてもあまり意味がない。
 というわけで広いと言えば広い、そこそこと言えばまあそういうような面積の農場をやっているわけである。農場の仕事についてはひとまずおくとして、話はわが家とわが庭である。
 この農地を手に入れた時は、道路沿いに建つ古い三角屋根の住宅がとても気に入ったのだが、これを残して他の木造倉庫類は全部壊してしまった。廃墟じみた古い倉庫などを取り除いてみると、ここは中々雰囲気のある地形をしていて好感が持てた。その昔リンゴ園だったというゆるやかな南斜面は見晴らしがよくて、村を一望できるし、その向こうには内輪山越しに羊蹄山がどっしりとした姿を見せている。斜面にそって上に登ると、そこはゆったりとした丘のようになっていて、小さな池があり、ずっと昔に入植した人の住まいの痕跡もあった。あちこちにリンゴやナシ、サクランボなどの朽ちかけた古木が立っていて、わずかに果樹園の名残もとどめている。
 離農跡地というのはどこでもかなり乱雑になっているもので、しかしそれは農家が悪戦苦闘した歴史といえる。なので、古ビニールや農薬の容器だのは、ゴミとはいえ必ずしも不快なだけではなくて、むしろ先人の苦労に頭を下げたくもなる。最初の数年は農地の片づけと整理に注力して、しかしこの作業期間はゆっくりと将来の計画を考える時間でもあった。
 丘の上一帯は、直前まではカボチャ畑だった場所だが、高いだけあって一番見晴らしが良かった。雑木林の裏山までも少し距離があって北側からの圧迫感もないし、南には内輪山越しに羊蹄山がよく見える。素晴らしい場所に出会った、と思った。大げさに言うと、一種啓示のようにして、丘はぼくに未来の住まいやそこでの暮らしを約束してくれたのである。
 住宅や庭の場所をできるだけ大きく描いてイメージし、あちこちに目印の杭など打ち、小さな起伏はブルドーザーでならしていった。いわゆる造成工事である。まずは中心部分をおよそ1ヘクタール3000坪ほどと決め、中央部を平坦にした。表土を移動したのでやや赤茶けて情けない光景ではあったが、ひとまず広い宅地ができ上がったのである。
 しかし問題がいくつかあった。そのひとつは公道から遠い、ということだ。北海道の家はどこも道路に密接して建てられるが、それは冬の除雪があるからだ。道路と建物の間に「引き」がないことに内地の人は驚くが、それには理由があるのだ。ところがここは公道から敷地まで100メートルにもなる距離である。冬期間の除雪をどうするのか、という大問題だが、しかしこれは結局、道路を舗装したり重機類を導入する、というような荒技で対応することにした。後になって色々苦労をすることにもなるが、その度に機械が大型になっていった。
 もうひとつの大問題は、見晴らしがいい分むやみと風が強いことだ。南側からカルデラ盆地を渡ってきた風が、もろに吹きつけてくる。穏やかな日もあるが、強風の日などは歩くのもままならないような吹きさらしの丘なのである。冬になるとまるでシベリアの荒野である。
 風対策には機械導入のような速効策は見当たらない。盆地の底から吹き上げてくる風を防ぐには、そこに林を作って木々に風よけをしてもらう、という正攻法しかなさそうだ。造成した敷地をぐるっととり囲むように木を植えて、内部の平穏を作る作戦だろうか。
 そう思ったが、これにもまたいくつか問題がある。ひとつは当然ながら木を植えても、それが育って風よけになるまでにはすごく時間がかかる、ということだ。大きな木を植えればいいのだろうが、まわり一周となるとかなりの数になるはずだし、費用もすごいことになるだろう。山に植林するように、苗木をたくさん植えて成長を待つしかないだろう。
 もうひとつの問題は敷地を林で囲む、ということはこれも当然ながら、眺望をさえぎる、ということだ。せっかく景色のいい丘の上を選んだのに、林で囲ったら風景はなにも見えない。景観か防風か、という選択になってしまうのであった。

丘の上の造成工事から数年後の住宅用地。木はひとつもない。
 そんな問題に直面して、結局やはり防風林を作ることに決めた。当時まだ40歳前後で、時間はいっぱいある気がしたし、家や庭はゆっくりと少しずつ作るものだから、木もそのうち大きくなるだろう、そう楽観的に思うことにした。木も庭も家も、いずれも10年単位で考えればいいのだ。
 敷地からの眺望については、木が育って家や庭から直接見えなくなっても、外に広がる農地側に出ればそれでいいように思える。庭に続く農地のどこかに展望デッキでも作って、天気のいい日にはそこからのんびり羊蹄山を眺めることにしよう。結局防風優先の路線を選んだのだが、今になってみるとこの方針でよかったように思う。
 そんなわけで現在の住まいと庭の用地が定まったのであった。1980年代中頃の話である。
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